第76話 母と子の会話
誰かの世話になるくらいなら何もいらない。ましてや、世話される他人を自宅に上げるなんて出来ない。避けられないならば、出来るだけ世話を受けずに時間を短くしてしまおう。
要介護認定のために来訪してきたケアマネジャーが聞いてくる質問に次々と答えてしなうのである。
「お名前を教えて」と聞かれるとスラスラと書いてしまう。「お歳はお幾つですか?生年月日も教えてください。」すべての質問に対して筆談で簡単に回答してしまう。
この結果、月に2回のリハビリセンターへの通院は今まで通り、私が付き添う事になり1週間に3時間だけ、火を使う調理の介助というか見守りのための介護職員の派遣が認められた。
母の意地は私の時間を奪っていったが今、この時に振り返ってみると僅かばかりの時間だったが母に償える機会をちょっとだけ与えられたのだとも思える。
母は失語症である。それも重度で快復の見込みはなかった。それでも私が行くと、その日の出来事をなんとかして伝えようと工夫する。自分の言いたい言葉を新聞の中にある文字から見つけ出して指でさす。ジェスチャーも加えた。
昼食作りにおいでになられるAさんは几帳面だがBさんは嫌いだ、とか、あの人には来てもらいたくないという事を顔をしかめたり、笑ったりする表情を使って伝えるようになった。
ある日のお昼に私の大好物である豚汁を作った。訪問介護の方と一緒に作ったものであったが、母は自分では食さず私の帰りを待っていた。
この頃、私は仕事が終わると荷物の入った鞄だけを自宅に放り込んで母のもとへ向かうのが日課になっていた。
「この豚汁の味付けは母ちゃんじゃあないね、ぜんぜん違う。」
たった、このひと言だけで母が変わった。
自分の味の豚汁を自分だけで作る決意をしたのである。たかが豚汁である。しかし入れる具材はその家庭によって違うし、食材の切り方だって違う。
そう、買い物にこだわりが生まれて、食材に料理そのものに自分自身を蘇らせたのである。もちろんそこに言葉はない、無くて構わない。
リハビリテーション専門病院への通院はスピーチ・セラピストによる言葉の回復練習のみで、わずか六ヶ月間で打ち切られた。ただ一ヶ月に1度だけ神経内科の受診があり、その主な診察は後遺障害からくる鬱状態の発症予防と脳に血栓が再び飛んでいかないようにする処方だけであった。
この一ヶ月に1度の通院で私の有給休暇はほぼ消滅したが、自宅にいてもアルコールを朝から飲んでいるだけであるから逆に良かったのかもしれない。失語症自体の治療は終わっていた、術がないのである。
母と介護士の手による昼食作りで出来上がった料理は、その晩の私の夕食へと廻されていく。あの日の豚汁からそうなっていった。
「今日のはどう? 母さんがひとりで作ってみたんだけれど、病気になる前と違っているかな?」
母はいつも同じ事を聞いてきた。言葉ではない、文字でもない。きっと母と子だけに通じる言葉があるのだろう。