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第75話 母の意地

 離婚が成立すると母は独り、自分の家で暮らし、私は私で誰もいない大きな家の中で独り暮らすようになった。母に会おうと思えばいつでも会える距離にいたが、思い出してみると親不孝の度を相当に超えていたと思う。


 「今夜は母さんが夕ご飯、作っておいたから食べに来なさい。遼平の好きなものを作っておいたわよ」


 この言葉が、かけられた時だけ実家に行った。出されたものは豚汁だった。今、思えば母は二度と孫に会わない覚悟で私を離婚へと導いたのだ。その結果、残された私の前には孤立と孤独だけが残り、飲酒量はますます増えていく。


 当然の事だが仕事とアルコールの暴飲は同居できない。


 そんな生活に中で事態は急変した。


 母が脳梗塞で倒れた。自分の足で病院の受け付けまで歩いて行き、しかしたどり着くのがやっとであり、自分の名前も症状も話すことができなかった。この前日には私が母のMRI検査撮影をおこなっている。


 傲慢という言葉がある。


 あの時の私を表すのに、これほど正確な二文字はないだろう。自分の母を検査しておきながら、頚動脈の撮影をおこなわなかった。撮影をしていても結果は同じだったかもしれない、だがそれは自分を正当化させるための言い訳に聞こえるし、すべては結果が優先されなくてはならない。


 「そんじょ、そこらの医者より俺のほうがよっぽど上等だよ」


 私の口癖だった。MRIを病院が購入してしまうと、採算を合わせるために撮影件数を増やす。あるいは患者自身が希望してMRI検査を求めてくる。


 「頭がズキズキ痛いんです。もしかしたら、悪いものが頭の中に出来てしまったのではないでしょうか。MRIで検査していただけませんか」


 患者の方から検査を求められたら、脳の専門医でなくても「いいですよ」と引き受けてしまう。専門医でない医師が脳のMRI画像を責任をもって診る事は難しい。確定診断ができる症例は、よほど教科書通りの病変画像だけになる。


 「桑名君、任せたよ。なにか見つけたら教えてね」


そう言われて、頼られるようになる。医師が患者に説明する文言のほとんどは私の見立てたものになっていた。


 自慢する訳ではないが、患者さんの顔と名前は一致しなくてもMRIが映し出した脳を見れば誰のものだかが判る。その私が見落とした、厳密には見落としたのではなく、なにもしなかったのである。過信であり傲慢であった。その結果がこれだ。


 母は脳梗塞による失語症からうつ状態に陥り、生きる気力も失った。


 長いと言えば長い闘病生活の始まりだった。リハビリに期待する事はできない、鬱々とした生活の始まりに過ぎない。私が二十四時間、母を観ている事は不可能であるので介護認定を受け、介護保険と社会福祉協会の協力を得て私が帰宅するまで見守りをしてもらう必要があった。


 介護認定を受けるにあたり、母の介護度が何級に相当するのかを調べるケアマネージャーなるものが訪問してきた。普段通りの生活を見せれば良いのに、母はケアマネジャーが自宅に来る数日前から自分の名前と住所、生年月日を折り込みチラシの裏面を使って何度も書いては練習を繰り返していた。


 言葉が伝わらないのならば筆記で伝える。母は意地を貫き通した。その結果、見事に自分の介護度を下げる事に成功してしまった。戦前生まれの日本女性の意地なのであろう。


 

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