第73話 裏切り
人とは不思議な生き物である。自分が望んでいない結果には慌てる。なんとかして元に戻そうとする。しかし結果の良し悪しに関わらず次にやってくるのは不安である。よって不安の対義語は安心ではなく、前進になるらしい。矛盾しているが、この感情はアルコール依存症者にはよく起こる。0か100かを選択してしまうのである。
あの日から半年が経っていた。成田空港第2ターミナルの2階、入場ゲートに私は一人で立っていた。
私より先に勇太が私を見つけて走ってきた。髪を丸坊主にして走り寄ってきた勇太の姿を今でも、はっきり覚えているのだから私はよほど、この再会が嬉しかったのだ。
この時点で私の最大の欠点である飲酒を絶っていれば、家族と共に幸せな人生が再び訪れていたのかもしれない。憎しみの標的となったサラは来日しない。このことだけでも私にとっては好都合だったが、アルコールの沼の底に私の足先はまだ到達していなかった。
駅のホームで、酔っ払った客が駅員に暴言を吐いている光景を見たことがあるだろう。
この状態はアルコールが人格を乗っ取り、異常なまでに短気な気性にさせられて、自分の中に堆積している鬱憤の矛先を全く無関係な者へ吐き出しているのである。 全くもって迷惑な話だ。車内だったら電車は止まってしまう。
私はサラに替わる標的を探し始めていた。それは私に歯向かってきても叩き潰せる弱者でなければならない。
標的はマイケルになる。サラにおこなった拷問をマイケルに替え、アルコールの蟻地獄へ容易く我が身と一緒に埋めていった。
再び、リミはマイケルと勇太を連れて私の元を去った。家族への虐待、躾という名の拷問の先にあるものは孤独だけである。
誰もいない一軒家には鼓動も呼吸もない。足音さえも聞こえてきてはくれない。そこにあるものはビールの缶とウイスキーの瓶だけであり、たったひとつだけ季節の移り変わりを教えてくれるのは、テレビから流れてくるコマーシャルだった。
そのコマーシャルでさえも『アルコールをもっと飲んだら幸せになりますよ!』と言っている。
家族が再びどこかに消えた事なんてどうでもよくなっていた。一度ならず二度までも私を裏切った者たちに対する未練など持ちようがない。いつからが朝で、いつからが夜なのかさえ区別がつかないほどの飲酒によって、今日が何日の何曜日かなんてどうでもよくなっていった。
仕事はかろうじて続けていた。
しかし孤立した事でアルコールは暴動に拍車をかけていく。
月曜日の朝になっても、ちゃぶ台の上に残されている飲みかけのウイスキーに口をつけてしまう。仕事を休む言い訳を繕い、職場へ電話を入れる。そして安堵の中で飲み続ける。
火曜日も水曜日も同じ言い訳で職を休む。木曜日は電話することなく無断欠勤になる。同じ手を何度も繰り返しては酒浸りの日々が続く。やっとの思いで通勤してやっても、白い目が向けられる。顔は腫れ上がっていて、左の瞼はボクサーが試合に負けた跡のように垂れ切っていた。連続飲酒の痕跡を少しでも隠そうと無駄な努力をしていたが『ずっと呑んでますよぉ』と顔と息が語っていた。




