第66話 マイケルとサラ
学業の中でもっとも頭を悩ませたのは算数である。算数は世界共通であると思うなかれ。
問題 時速200kmで走る新幹線に乗って、東京から大阪まで行きました。東京~大阪間は400km離れています。
何時間かかって到着するでしょうか?
マイケルの私に対する質問は「オオサカってなに?」「シンカンセンはなに?」になる。
頭を抱えるしかない。答えではなく質問が理解できない。
掛け算 2×2=4
これは日本語では、ニニンガシであるが。マイケルは頑なにニニンガヨンと言い続ける。時代が変わったのかと思って小学生の子を持つ友人に電話で聞いてみた。
「桑名さん、時代が変わってもニニンガシに決まっていますよ。」という答えだった。
「明日までに牛乳パックを6個分を持ってきてください。」
今夜、この時間から牛乳を6リットルも飲むのか!いったい、このお知らせプリントはいつ、もらってきたものなんだ!
すべてがこういう具合になる。
私の中の心の平穏という言葉は粉々に砕け散り、アルコールの量は異常な量に達しようとしていた。
そして、ここから私の自制の防波堤は破壊されていく事になる。気が狂いはじめる前奏曲は緩やかに音を叩き始めた。
マイケルとサラに責任はない、それは解っている。わかってはいるのだが、どうにもならない、やり切れなさに翻弄されていく。
文化の違いというものもある。
言葉も違えば、習慣も違う。
日本に来たからには日本の習慣に合わせるのが当然である。たとえ、七歳だろうが五歳だろうが、ルールが守れないならば帰ればよい。帰国が嫌ならば鞭打たれても身体で覚えればよい。
かつて日本人の躾には体罰は付きものだった。私も父に殴られたし、母には竹でできたハタキの枝の部分で引っ叩かれて、太ももにミミズ腫れが出来たものだ。
今では考えられないだろうが躾と体罰は表裏一体だった。だから私は躾のためには体罰は必要不可欠であると決め込んだ。
マイケルは男の子という事もあって、私自身が父にしてもらった事をすればよい。
小学二年生の男の子ならば、まずは自転車を買い与えて乗り方を覚えさせよう。これを実行すると、わずか二日目には補助輪なしで乗れるようになってしまった。
問題は女の子のサラだった。
サラは利き手が左だった。日本人は左利きを嫌う時代があった。特に調理の世界ではすべてのものが右利き用にセッティングされている。私の幼少期には左利きは無理にでも矯正させられたものである。
サラの利き手を右に治してやるのは当然のことである、
フィリピンに箸を使う文化はない。見た事も使った事もない箸をサラに使うよう命じた。それも右手のみで握らせた。それにもうひとつ、厄介だったのがテレビの存在だった。
日本のテレビ番組の方がフィリピンよりも面白いらしい。
サラは食べるのがものすごく遅かった。たった茶碗半分の飯を食うのに二時間も要した。その間、テレビの電源は落とした。テレビをつけておくと箸がまったく動かなくなってしまう。
仕事が終わって自宅に帰れるのが午後6時くらい。マイケルかサラのどちらかと勇太の三人で風呂に入る。
マイケルもサラも入浴というものを経験した事がなかったから湯船で遊びまくる。サラは丹念に身体を洗う。
フィリピンでは家の入り口付近までホースを引っ張ってきて、水を流すだけであるからマイケルの膝裏は当初、垢でカサカサだった。
子供達が入浴したあとの風呂の湯は濁り切っていた。