第65話 三人のフィリピン人親子の来日
次々とフィリピンからの入国者が出迎えに来ている者たちの中に紛れては消えていく。中には幼さを顔に残している十歳代前半と思われる少女もいた。
安っぽいTシャツとジーンズ姿で日本にたどり着いたのだろう。彼女たちはシンジゲートという名の手配師によって明日の夜には福岡、名古屋、仙台のネオンのオンナと化すのである。
夜、7時を過ぎた。いくらなんでも遅すぎる。フィリピン人に対する入国チェックが厳しいのは知っていたが、七歳と五歳の子供になんの嫌疑があるというのか。
7:20PMを少し過ぎた頃、やっと二人の子供が入場ゲートから出てきた。何度か写真を観ていたので、すぐにマイケルとサラだとわかった。
二人の子供たちに並んで老婆が手を繋いで連れ添われてきた。一瞬、事態がのみ込めなかった。
➖そうか、そういう事だったのか。➖
なぜ、入国審査に時間が掛かったのかが、ようやく理解できた。二人の子供と一緒にやって来たのはリミの母親だった。母親のパスポートとビザまで作っていたとは思っていなかった。
夜の首都高速道は事故渋滞していた。
東京の街のネオンの煌びやかさに目を丸くして驚いていたのは五歳のサラだけで、マイケルもリミの母親も車中で眠ってしまっていた。リミも助手席で眠っている。
「ディス・イズ・トウキョウ!」とサラに言ってみたが、なにも答えは返ってこない。
銀座の街を見下ろしながらクルマを走らせていた時に、首都高速5号線に入る順路を間違えてしまい都内を2周してしまった。
私達の帰りを寝ないで待っているだろう実家の母に運転をしながら携帯電話を使って連絡を入れた。
「首都高速が事故渋滞していて到着予定は22:00を過ぎそうだよ。」
受話器からは勇太の声が聞き取れたから、まだ起きているのが判ったが、とりあえず急ごう。泣き出したら大変だ。
翌日にはパジャマ兼用の普段着としてトレーナーを二着づつ買い、下着類、靴、生活用品などを買いに回った。ランドセルはウェブ・サイトで簡単に見つけられ、入学シーズンでもないこの時期にランドセルを購入できる事に驚いた。
浦和の入国管理局への手続きに始まり、小学校の転入届、役場、健康保険証の制作、そのすべてを私がひとりでおこなった。私以外にできる者がいないのだから、やらざるを得ない。
マイケルは小学校2年生からのスタートとなり、担任にはベテランの女性教師がついてくれた。おそらく、誰ひとり、自ら手を挙げる教師がいなかっただろう。
マイケルに学校内の伝言をしても私のところまで届くとは思えず、毎日が家庭訪問日となる。担任の先生が我が家においでになられる度に頭を下げてお礼を言う。
常識的な儀礼行為であるがイメージしてもらえればお分かりになるだろう。毎日、夕食どきに家庭訪問する教師も、受け入れる私も精神状態は追い込まれていく。
「ピアニカとそろばんを買ってあげてください。マイケル君には手紙を渡しておいたのですが、きっとお父さまに届いていないでしょう。」
まったくその通りである。マイケルにしてみれば、もらった手紙は単なる紙切れにすぎず、書かれてある文字さえ、無意味な柄模様にすぎない。
ピアニカの練習曲は某大手製作所のコマーシャル・ソングになっている『この木、なんの木、気になる木・・・』という、誰もが知っている曲である。誰でもがだ、ただし、この前文に『日本人ならば・・・』という言葉を付け加えなければならない。
私自身、ピアニカを吹いた事がない、だから教えたくても教えられない。ちなみに私の小学生時代の音楽の成績は6年間、すべての学期でオール2だった。