第60話 スナック『夕月』
リミは必死に働いたと思う。朝の9時から夕方5時まで、タマネギの皮剥きと根の部分の芯取り作業に専念した。出勤も帰宅も私が途中でクルマから落としては拾い、アパートに辿り着く生活になった。
帰宅時の車内はタマネギが発するツゥーンとした刺激臭で充満している。
「今日は2000だよ、2番だよ。2番。」
タマネギの芯の部分は先端の尖ったピッチャーナイフでくり抜く。皮はピストル型のエアガンで一気に吹き飛ばす。
「2番て、競争でもしているの?」
そう聞くとリミは微笑みながら「1週間に1度、ゲームあるだよ。勝ちたいよ、まだ1番になっていないよ。」
そして「同じ国の人が何人もいるよ。よかったよ。働きたいフィリピン人いたら、紹介してほしいって言われたよ。」
ハードな仕事の割には給料は安い。若い日本人女性ならばまず選ばない職種だろう。
「ブッチョウさん、優しいなぁ、でも送金足りないよ。夜も働くかぁ!」
リミの言葉に唖然とした。日中は今のままハードに働いて、夜の二時までホステス業を再開すると言うのだ。
言い出したら絶対に行動に移す。間違いがない。そうであるなら私の知り合いのスナックのママに頼んでみよう、そう思い、電話を掛けてみた。
「うちの店じゃあホステスの募集していないの、うちさぁ、テナント・ビルの2階でしょう。立地条件が良くないからお客の数が少ないのよねぇ、駅からも離れているし。知り合いのママさんをリョウちゃんに紹介してあげるから電話してみなさいよ。リョウちゃんの頼みだもの、私からも頼んでおくわね。でもさぁ、その女ってリョウちゃんの何なのよ?」
この際、嘘は不必要だから正直に答えた。
「フィリピン人の内縁の妻です。」
受話器から「ギャハッハッハだね。」と変な笑われ方をされてしまった。
紹介されたスナックは『夕月』というネーミングのネオンを灯していた。ただ狭苦しい正四角形の部屋の端々にテーブルとソファーを並べただけで「一体、どこが夕月なんだろう?」と思った。
週に2、3回程度の出勤でも構わないという条件が好都合だったが経営者は不動産屋らしく、私が頼ったママの店の経営者でもあった。
内縁の妻となった女性を夜の女として働かせるのは気分の良いものではない。帰り道でなにかに巻き込まれたらと思うと寝て待つ事はできなかった。
ある時はスナックの客となり、ある時はホステスを待ち伏せするストーカーに成りすます。店が終わるまで、店の前に路上駐車しネオンが消されるのをただただ待っている。
客として出入りすると、どうしてもおかしな間柄に映ってしまうらしい。自分では気付いていないのだが「あの奥にいる男ってリミのなんなのさ。」になってしまう。
午前二時を少し過ぎると、いつものようにリミは店から出てくる。青色のポリタンクを両手に抱え、生ゴミを捨てに出てきたリミが目で合図を送ってくる。
➖もうちょっとだから、待ってて➖
クルマのキーを回し、エンジンを掛けて車内で待ち続ける。やっと自宅に帰れる安堵感が生まれるのだった。
この生活はある日、突然終わる。
なんでもそうだが物事とは自分が望んで始めた事であっても、ある日、突然終止符が打たれるものである。
夜のスナックのホステス業でも社員旅行に参加するように強要されたのである。経営母体が不動産業ならではの飾り物としての強制参加だった。