第54話 美味しいね、天せいろ
アパートの賃貸契約なんてたいした労力はいらないと思い込んでいた。外人だから、フィリピン人だからという差別がこれほど強いとは思っていなかったので、不動産屋には正直に借り手が外国人であると話してしまった。
だが、自分の判断の甘さにすぐ気が付いた。外国人に賃貸しない理由は突然、行方をくらます可能性があること、次に食べ物の匂いである。フィリピン人はそれほどでもないが香辛料の匂いを部屋一面の壁に塗りつけて消えていく者も多いそうだ。あとは声である。
深夜でも彼らの言うところの仲間同士で携帯電話を使い、話す声の大きさは苦情になって不動産屋を困惑させる。
「リミ、アパート見つかったよ。」
この言葉を伝えられるまでに27件の不動産屋を彷徨い歩いた。借りられたアパートはワンルームのロフト付き、家賃は37000円だった。
私が保証人になる事でようやく借りる事はできたのだが、二階に昇る階段沿いの角部屋だったので靴音がうるさかった。
「大丈夫、音なんて気にならない。夜はほとんどお店に行っているから。」
リミは喜んでくれたが私は腹立たしかった。たったワンルームひとつを借りるのに二ヶ月もかかり、26件の不動産屋の人種差別を実感した事にである。
「ごめんね、時間が掛かっちゃった。」
涙が出てきた。悔しい涙なのか、嬉しい涙なのかは忘れてしまったが「いいよ、ありがとうね。これで旦那から逃げられる。」
そうリミは言うと紙袋に入った箱を私に手渡し、軽く頬にキスをした。
このキスがあまりにも自然であり、感謝の気持ち以外のものまで伝わってきた。箱の中身を早く見ろと言いたげにしているリミと一緒に、まだ生活用品が何もない部屋の中に二人で入った。
プレゼントされた箱の中にはワイシャツとネクタイのセットが入っていた。
「なぁ、リミ、日本人は引っ越しをした日には蕎麦を食うんだ。奢ってやるから蕎麦屋に行こう。」
私がリミのために借りたアパートのすぐ近くに老舗の蕎麦屋があった。
最寄りの駅まで歩いても10分ほどで、途中には銭湯もある。銭湯の入り口の反対側にコイン・ランドリーが併設されていて、そこから駅方向に進めばリミが務めているスナックがあるという立地条件だった。
まだ客が誰もいない蕎麦屋の店内に入り椅子に座ると「カケってなに?」と唐突にリミに聞かれた。かけ蕎麦のカケの意味がわからない。リミは金額を気にしている。
「金額なんて気にしないで天せいろにしよう。俺は大盛りにしてもらうよ。リミも同じ天せいろね。」
しばらくして二人のテーブルに運ばれてきた天せいろの海老の天ぷらを口にしたリミは「これ、おいしいね、テンセイロ」と言った。
本来の意味とはズレていたがまぁ、いいだろう。リミは生まれて初めて食べた海老の天ぷらを口に運びながら「おいしいね、テンセイロ、おいしい」と繰り返した。