第53話 フィリピン女性のリミ
「リミっていうの、ちょっと前まであっちの方にいたの。逃げて来ちゃったの。」
リミが指差した『あっちの方』とは北になり、その街の名は小江戸と言われている所であった。
リミと名乗った小柄で美しいフィリピン人女性の話を単に興味本位で聞いてしまった事が、のちに私の人生を大きく変える事になる。リミという名も当然ながら源氏名であり、ほかの水商売の女たちと何ら変わりはしない。
ただし、フィリピン人という括りで話すなら他のホステスたちとは違っていた。彼女には亭主がいて日本の在留資格を持っていた。このビザがイミテーションではなく本物であり、この事が小江戸のスナックでトラブルをもたらしたそうだ。
「わたし、ビザあるよ、本物だよ。入管が怖いから。でも、みんなは持っていない。持っていてもイミテーションだよ。何人か、入管に連れていかれたよ。わたし、リークしていないよ。でも信じてくれないよ。」
なるほど、フィリピン人仲間を入国管理局に売った女だと思われたのか。この世界ではよくある話だ。客の奪い合いをせずとも金ズルを手に入れる事ができる。
ではリミは亭主と一緒に逃げて来たという事なのか?
「違うよ、ダンナ、うるさいよ。ジェラシーだよ。最初は優しかったけれど今は違うよ。アパートもボロボロだよ。お風呂のガス、オートマチックじゃあないよ、危ないよ。バーンするよ。」
この女性の話を鵜呑みにすれば、リミは偽装結婚してマリッジ・ビザだけを取得した事になる。
「今は寮に住んでいるよ。このお店の2階だよ。トイレない、お風呂ない、ちゃんとしたアパートメント借りたいよ。でも外人にアパート貸してくれる不動産屋さん、ないよ。お金あっても貸してくれないよ。ダンナのアパートに私の荷物いっぱいあるよ。取りに行きたいよ。」
「アパートくらい日本人名義で借りてしまえば良い事だし、荷物なんて旦那の留守を見計らって取りに行けば済んでしまうことだ。」と私は言った。
「そんなに簡単だったらアナタがやってよ。アパート借りられてから荷物を取りに行く。クルマ持ってるだろう。」
リミの頼みを安請け合いしてしまったが、この時点では別段、難しい事ではないと思っていたので約束ごとができたことが嬉しかった。
「じゃあ、不動産屋からまずはあたってみるよ。契約が済んでから荷物を運び出そう。今、住んでいる寮ってそんなに酷いのか?」
「ひどいよ、トイレない。窓が全部、ダンボール。夜、トイレ怖いよ。見にくるか?」
オトコ言葉で話をするのはリミに限った事ではない。フィリピンを出国する時には日本語は全くと言っていいくらい教えられていない。
日本に来て覚える言葉は夜のネオンの住人たちが話す言葉使いだけだから、どうしてもオトコ言葉で日本語を覚えてしまう。
翌日、仕事が終わってからリミが寮と言っている部屋を見せてもらった。
店の外階段を昇るとそれに続く外廊下に沿ってドアが3つあり、突き当たりが共同トイレになっている。
まずトイレを見せてもらった。共同トイレは汲み取り式だった。リミの部屋は真ん中の部屋で、ドアを開けるとカラーボックスの本棚と眠るためだけのスペース、それと充電器に置かれたままの携帯電話があり、廊下側には窓はあるのだが、その窓を開けてしまうとトイレに向かう者たちに部屋中が覗き込まれてしまう。
カーテンの代わりらしいダンボール紙がガムテープでしっかりと貼り付けられていた。
「ガラスが割れているの。風がピューって入ってくるよ。」
聞いてもいないのにリミは教えてくれた。
「お隣には誰が住んでいるんだ?」と聞くと「マキのお姉さんだよ。病気になって仕事が無くなった。反対側の部屋はドライバーのハル君が住んでいる。」
➖さすがに、ここは若い女性が暮らす場所ではないよなぁ➖
本心が言葉になって出てしまった。