第51話 はじめての雪景色
「ちょっと待って、桑名さん、貴方は離婚をしていたはずよね。」
アルコール依存症病棟の看護師が私の遠い記憶を蘇らせる通路に入り込んできた。そうだ、私は離婚経験者だ。母が倒れた時にはすでに独り身のヤモメだった。
この離婚の原因を作り出したのもアルコールである。
「傷付けていい人なんて、この世の中にひとりもいないのよ。」
この言葉をまだ二十歳そこそこの私に言ったのはスナック『愛』でホステスをしていた真由美だった。
そう、最初の恋愛らしい恋愛相手だった真由美と別れてからアルコールの飲酒量は徐々に増えていたし、夜の酒場のネオンの住人の居心地の良さも覚えた。女というものも知ったし、騙し方、騙され方も歳相応以上の経験を持っていたと思う。
私には確かに妻がいて子供もいた。
ある日、突然捨てられて独りきりになったのだ。
真由美に連れて行ってもらったスナックはフィリピン・パブだった。ここにマキという若い娘がいた。おそらく十歳代だろう。カタコトの日本語は話せるが、フィリピンを出国する時に覚えさせられた言葉は『いらっしゃいませ』と『ありがとうございます』だけである。
フィリピン・パブに出稼ぎに来る女性たちは本国で、その手のシンジゲートに登録しておく必要がある。この登録代金が高額で、日本とフィリピンの物価の違いからすると相当な金額を払わされる。
「お姉ちゃんがいるの、日本にね。10年以上いる。お金いっぱい送ってくれたよ。だから、お姉ちゃんと同じことをしに来たの。」
マキの姉は日本に来て、その手のパブで雇われていた。当時の日本はバブル経済の真っ只中にあり、金は湧いては消えていく。ただ泡が消えていく場所に我が身を置いておけば大金が懐に入ってきた。 マキの姉も多い月で50万円以上を稼いでいたという。
「お姉ちゃんのことがうらやましくなったってことか。」
私の言葉にマキは「うん、でも今の日本人、ケチだよ、チップない。アフターもない。」と答えた。
グラスから滴り落ちてくる水滴の汗を真っ白いおしぼりを使って拭き取りながらウイスキーをそそぐ。氷を二つ落とし入れて水割りにしていく。
マキは言葉の多い娘ではなかったし、表情がいつも寂しそうだった。笑顔を作っても常に寂しさを漂わせながら安物のガス・ライターをカチカチさせる癖があった。
「マキを贔屓にしている客っているのか?」と聞いてみた。
「いるよ、ひとりだけだけど。でも遠くから来る。だから1ヶ月に1回か2回しか来ないよ。」
この贔屓客はマキがこの街のフィリピン・パブで働く前の店から彼女を目当てに足しげく通っていたそうだが、彼女が移籍した事で遠方になってしまった事と今、マキがいる店の金額設定が合わなくなったのだろう。頼りにならない客へと変わっていった。
「じゃあ、これからは俺がこの店に来るようにするよ。マキに電話を入れてから来店するから携帯の番号を教えてくれ。」
飲み屋の女とねんごろになるのは容易い。金さえあればどんな女でもなびく。ましてやそれがフィリピンからの出稼ぎホステスなら至って簡単な事である。
「リョウヘイ、ありがとう、うれしいです。」と言った口は瞬時に私の頬にキスをして感謝の気持ちらしい愛情表現をしてきた。
外国人特有のキスであるが根っからの日本人である私には驚く行為であった。
ある夜、夜といっても午前3時を過ぎていたが私とマキともうひとりのフィリピン人の三人で一緒にスナックのドアを開けて外に出た。
一面が銀世界と化していた。
「オー、スノー、スノー! リョウヘイ、ワンダフル!」
これほどの積雪を見るのは久しぶりだったが、マキにとっては生まれて初めての雪景色だった。誰にも踏まれていない、足跡も自動車のタイヤの跡もまったくない雪が積もっている道を三人で歩くたびに『サク、サク』と音を立てて雪が鳴いた。
マキの顔を覗き込むと、今まで見たことがないほど、嘘が全く無い笑顔だった。
きっとあの時の真っ白な雪はマキそのものだったのだろう。