第48話 母、失語症になる
心臓の鼓動が乱れると心臓に中で血液が溜まってしまう。この状態を数年間放置していると心臓の中で血の塊が出来上がる。最初は小さな塊だが、徐々に血液を寄せ集めていき大きな塊へとなる。ある時、なんらかの理由でこの大きくなった血の塊が心臓から飛び出す。
大抵の場合、脳に向かって飛ぶ。母の心臓にできた血の塊は大きくなり過ぎていて、脳まで行けずに左の首の血管を詰まらせていた。それも完全に固く出来上がった塊ではなくて、お粥のようにドロドロとした血液が泥のようになって首の血管、いわゆる頸動脈に堆積していた。
では、なぜ母は意識を失わなかったのかと言うと、血液の塊が完全に左頸動脈を塞いだために右側の血流が迂回して左の脳を守ろうとした。これが不完全に詰まっていて少しでも血が通っていたら右側からの血流は押し戻されてしまう。
「これ以上、脳梗塞が広がらないように治療はするけれども、お粥状になっている血栓を溶かし切るのは無理だな。心房細動がある患者さんに血栓溶解すると脳出血を併発してしまう。
ドクターに言われるまでもなく私も持ち得ている知識である。母は少なくても8時間以上、この状態でいたはずだから脳梗塞は出来上がってしまっていると容易に判断できる。完成され壊死してしまった脳はMRI画像上では真っ白に映し出される。
その周りにはまだ未完成のエリアが薄っすらとした色合いを呈していてこのあと白く変わっていくであろうと思われる。
この変色が起こる前に治療する事で、梗塞を最小限にするしかない。ピナンプラ・エリアという。
「かあちゃん、わかるか? 気持ちが悪いのか?」
私の声掛けに反応はするが「大丈夫」としか答えてくれない。
治療は脳梗塞を大きくさせないようにする点滴と左の鎖骨を切って心臓の近くまでチューブを挿入し直接、心臓に栄養分を送り込むCVと言われるものをおこなった。
指にはバイタル用のサックがはめられ、胸には心電計が貼り付けられ。常にモニターが血中酸素濃度と脈の数を表示していた。
母の脳梗塞は言葉をつかさどっている言語中枢を死滅させてしまっていたが、右半身の運動を支配している部分は生き残っていてくれた。この部分まで死滅してしまうと右半身麻痺になる。
「かあちゃん、メシがきたよ。ちょっとだけでも食えば。」
母は顔を左に反けて「いらない」という意思を伝える。言葉は出ない。
この状態が三日続いた。しかし、このあと母は一気に快復していく。食事も取れるようになり、自力でトイレも行けるようになった。
食事を終えると毎回、歯磨きをするために共有の洗面所に向かう。ちゃんとフェイスタオルと『箸』を持っていくのである。
「かあちゃん、それは箸だよ、間違っているよ。持っていくのはこっち、歯ブラシだよ。」
私が指差した歯ブラシを見て、母はうっすらと笑い顔をみせた。恥ずかしさを隠そうとした笑みであったと思う。
母がこの厚生病院に入院していたのは二週間だけである。この二週間で回復すべきものは回復し、諦めざるをえないものはリハビリを専門とする病院へ託される事になった。退院前に首の血管のエコー検査もおこなった。
頸動脈には内頸動脈と外頸動脈のふたつがある。途中で枝分かれしているのだが、枝分かれするほんのちょっと手前でドロドロした汚泥のような血液の塊が心臓の鼓動に合わせて揺れていた。
「こんなに詰まっていても脈の力で上下するんだね。」と言ってる検査技師の声が聞こえた。私も見せてもらったが確かに、まだ固まりきっていなかった。
「おかあさんのことをMRI撮影した時になぜ、頸動脈の撮影をしなかったの?」
検査技師の質問だった。まさに、その通りである。私は検査を忘れたのではない。廊下を通る人の目を気にして頸動脈撮影をしなかったのだ。
後悔・・・そんな甘い言葉では済まされない。他者に言わせれば、故意に撮影を怠ったという事になり、実験撮影という名目の上で母を検査しておきながら見逃したことになる。
父が死んだ時に叔父から言われたひと言が頭によみがえった。
「医療従事者がいて、なんで気が付かなかったんだ。」
まさに、その通りである。
注: 血栓溶解術は現在、心房細動がある方でも施術可能な薬品が開発されています。