第47話 脳梗塞
事務長の言葉を聞いたフリをして➖今日中にお中元を配り終えてしまおう➖という思いの方が強く、昼食を食らって10分ほどでまた外回りに出掛けた。
医者というものは平気で人を待たせるものである。
たったビールの一箱を渡して「今後ともよろしくお願い申し上げます。」のひとことを言うのに2時間も待たされる事さえある。だからこの日の私の目論見は達成されなかった。
勤め先に戻って来られたのは夕方の5時を少し過ぎた時刻だった。レントゲン室の椅子に座り、お中元の品の在庫確認をしていると備え付けの電話が鳴った。受話器を取ると事務員の女性だった。
「桑名さん宛に今、厚生病院からお電話が入っています。お繋ぎいたします。」
父を看取った病院の名である。
「桑名さまでしょうか? 私は厚生病院のケースワーカーをしている中村と申します。」
このケースワーカーである中村という女性の名は知っていた。すぐに名前と顔が結び付き、さらに美脚の持ち主である記憶が甦った。
「桑名さまのお母さまと思われる方が朝から外来にいらっしゃっています。ご自分では体調の状態も言えず、お名前もお答えになれないようです。ですのでご所持なされていた保険証の番号を照合させていただきました。すぐにこちらにお越しください。身元の確認をお願いしたいのです。」
身元の確認なんて必要がない。母に間違いない。保険証の番号照合は確かだが私が昨日、撮影したMRI画像を母は病院に持ち込んでいた。画像の入った袋には昨日の日付、名前、病院名が記入されている。
「その人は間違いなく私の母です。現在の容態を教えていただけますか?」
「お母さまはご自身のことを一切、お話になっていません。おそらく、出来ないのだと思います。意識レベルはしっかりしていますが、お名前も言わない。文字も書かないのです。まるで失語症のようですが、そのような既往歴はございますか?」
「ありません。今から急いで向かいます。30分くらいで到着できますので、それまで看ていてもらえますか。」
ここまで言うのが精一杯だった。
母と思われる人が待っている病院に向かうクルマの中から弟の自宅に電話を入れたが留守番録音になっていた。
「母ちゃんが倒れた。オヤジの時と同じ病院だ。すぐに来てくれ。」
それだけのメッセージを残し、荒い運転で急いだ。
母は診察室でも病棟でもない、1階にある点滴室のベッドが並ぶ1番奥に寝かされていた。間違いなく母である。
「かあちゃん、どうした、めまいが酷いのか。」という私の言葉に対して「大丈夫、大丈夫」と二度繰り返した。
ケースワーカーの中村さんと看護師がひとりいるだけで医者はいない。
「どういう状態なのでしょうか?」
看護師に対してなのか、中村さんに聞いたのか曖昧になったが答えてくれたのは看護師だった。
「午前中の早い時間におひとりで受け付けに来られたんです。その時にはもうお話が出来ない状態でしたので一体、誰なのかさえわかりませんでした。言葉は『大丈夫』しか言いません、言えないようです。もう少ししたらドクターが病室から降りてきますから、ちょっと待っててください。」
昨日おこなったMRI撮影では何も見つけられなかった。しかし、あのあと何かが起きていたんだ。何が起きたんだ。外見上は全く問題がない。身なりもちゃんと着替えてから病院に来ている。
「かあちゃん、何があったんだ。」
「大丈夫、大丈夫・・・」
「大丈夫だけじゃあ判らないよ、あのあと、なにが起きたのか?」
すでに病院の受け付けは夜間帯の救急対応に入っていた。母は少なくても、この状態に陥ってから8時間は経過している事になる。
病棟回診が終わったらしい医師が現れて言った最初の言葉は「ショック性の一時的な失語症かもしれない。昨日の日付が入っているMRI画像を持ち込んでいるから、その医療機関で検査を受けたということだよね。どんな状態だったか、お母さんから聞いているかい?」
「いえ、違うんです。あの画像は私が母を撮影したものです。母はめまいと尿がほとんど出ないという事で、私が撮影したものなんです。」
私の答えに対してドクターは「君って医療者なのか。」と聞き返された。
「はい、放射線技師として◯◯病院に勤めています。」
「あぁ、あそこね。ウチからも転院させてもらっているよ。あそこの技師さんかぁ。MRIをもう一度、これから撮影させてもらうよ。昨日の状態とは違うって事だからね。」
「はい、お願いします。」
「君も入っていいよ。プロなんだから。」
母は検査台に乗せられて、そのまま超伝導のMRIの中に流されていった。昨日、私がおこなった光景と同じである。 私の隣にはこの病院の技師がいて画像を映し出すモニターが机の右端に置かれている。
撮影は頭部のみ、しかも脳梗塞の初期状態でも映像化できる撮影から始められた。この撮影方法は私の職場にあるMRIでは出来ない。いや、出来ることはできるのだが時間がかかり過ぎる割に画像が綺麗ではない。
わずか1分ちょっとで最初の検査画像がモニターに映し出された。
「なんで、こんな事になっているんだ、昨日の検査では全く無かったのに。」
左の脳の側頭葉の大半が虚血を示す真っ白な画像として映し出されていた。
「脳梗塞だね、しかも範囲が広い。言語野のウェルニッケも虚血してしまっている。」
ドクターの言葉にただ「そうですね。」としか返せなかった。
母は数年前から町でおこなわれる健康診断を受ける度に心房細動を指摘されていたが「様子をみましょう。」という医師の言葉に従い全く治療も投薬も受けてはいなかった。