第35話 転職、自動車営業職
真由美との別れと時期をほぼ同じくして私は職業を変えた。すべき事だけをしていれば良い仕事に嫌気がさしてしまった結果だった。安定よりも新しいモノを求めたいと思うのは若者の陥りやすい思考回路からであろう。
始めた職業は自動車の営業職だった。それも新車のみしか扱えない。シェアで言えば1位でも2位でもない。わずか6%に満たない自動車メーカーの営業になってしまった。
なぜ、わざわざ自分を厳しい場所に追い詰めたのかといえば、当時の日本がバブルであったからだと思う。公務員にバブルの恩恵はない。こんな好景気な時代は滅多に訪れないだろうし、あの時代を通り過ぎた人なら解るだろうが、人を狂わせるのに充分な罠が用意されていた。
昨日まで「贅沢なんてまったくしないよ。タバコも吸わないし酒も飲まない。唯一の楽しみは休日のヘラ鮒釣りだよ。給料が余って溜まっていく一方だ。」と言っていた人が「遼平くん、これからは自分が働くんじゃあないんだ、そんな時代はもう終わったんだよ。お金が兵隊になる時代が来たんだ。教えてやろう、ここに、今度もらえるボーナスの全額を投資してみな、たったの半年で桁が1つ増えている。」
私がバブルに乗る事はなかったが真由美との別れ、バブルの到来が若かった私にはなにか得体の知れない恐れと不安を生み出して「このままではいけない。新しい世界に飛び込もう。」と無意味な行動を取っていったのだと思う。
モノを売った事がない者が営業職という人を騙してナンボという世界に抵抗感を持つのは当然である。それでも自分で決めた転職であるから仕事の真髄だけは盗んでおこうと決めて日々を送っていた。
人には得手、不得手がある。
人というものは実に不思議な生き物である、数字のトリックに簡単に引っ掛かる。
最終的な支払い総額が同じであっても『値引き』の金額を大きく見せると簡単に騙せた。
値引きの金額を大きく見せるには手数料を水増しすれば良い。
もっと大きく見せる方法もある。
引き取る下取り車両を横流しすれば良い。正規ルートで査定額が0円であっても、買い取ってくれる業者を見つけておいて現金に換えてあげれば値引きの金額を上乗せできる。
例えば「査定金額がございません。むしろ引き取り金額が発生致します。」と客には言っておきながら、裏では業者に20万円で引き取らせる。そのうちの10万円程度を値引き額に見せかけて返金すれば喜ばれる。この手法で契約書に署名、捺印させる。
余った10万円は夜のネオンに吸い取られることになる。
自動車の営業というものは売り上げが達成できても飲み会があり、予算に満たなければ深夜まで罵倒され続ける。罵倒の先にあるものもやはりアルコールだった。
入社してまず、驚いたのは昼の飯時だった。真っ昼間から「ラーメンと餃子、それに瓶ビールを1本、グラスは2つね!」と頼んだ先輩の言葉だった。
サラリーマンが昼飯時にビールを飲んでいるのである。
「遼平も一杯飲めよ。午後の景気付けだ。」
そう言われてしまえば否応なく飲むことになる。
「今週の目標台数、達成!飲みに行くぞ。」
こんな事はほぼ毎週のことで、逆に残念会もアルコールだった。ゴールデンウィークの連休中は泊まりがけで賭け麻雀がおこなわれ、その場にもアルコールは用意されていた。
まさにアルコール漬けの日々である。
自動車の営業職に勤務時間の制約はない。自分でスタートさせて自分でエンディングをつける。当然ながら結果が全ての世界であるから、売れない者は「会社にくるな!客の自宅訪問でも行っていろ!」
この言葉で連日のように攻めたてられる。自宅には寝るためだけに帰るようなもので、夕食を我が家で食べるなんて事はまずない。
寄り道をして場末の飲み屋でアルコールと簡単な酒のつまみを食らうだけの生活になっていく。こうなると行きつけの飲み屋が出来上がって、常連という格付けがされ、ツケで飲ませてくれる店が形成されていくのである。