第29話 過去
スナック『愛』には毎週末、決まって通いつめていられたし、真由美の自宅にも自由に出入りができるまでの関係になっていた。
最初は週に1回だけの関係が同棲同然の生活スタイルに変わった頃にはお互いにひとつづつ歳を加えていた。一緒に暮らしてはいたが全く拘束される事なく、またする事もなくお互いに愛し合ってると言うよりは一緒にいて楽しい存在になっていた。
真由美がスナック『愛』を辞めて『子供たちの園』という養護施設に戻って働き出したのはその年の夏だった。
彼女は再び保育士としての資格を活かして働き始め、私の方はレストランを辞めて、チーフ・シェフの口利きで国立病院で働き始めた。
人に言わせれば国家公務員という事になるが、実際には日雇いのパート従業員と同じ待遇で、ただ働いている場所が国立であるというだけの身分の保証さえ無い職場だった。 ただのんびりした時間の流れを感じながら、すべき事だけをしていれば良い、この上なく楽な環境に身を委ねていた。
そんなある日、真由美が私に彼女自身の過去を話し始めた。
真由美は亭主と二人の男の子の四人家族であるが、亭主は全く自宅を顧みなかった。
私との同棲中に一度たりとも姿を現さなかったし、電話の一本も掛けてはこなかった。ただ、借家の家賃と子供たちの授業料を振り込む事で責任をはたしている、そう考える人だった。
真由美の子供達も滅多に自宅には帰ってこない。学校が終わってから一体、どこでなにをしているのか。あの頃の私には全く興味がなく、むしろ好都合だった。
真由美には私と出会う前にも歳下の男性がいた。 私との決定的な違いはその男には妻子があったという事である。
「その男とはどうなったの? 不倫同士っていう事になるから永くは続かなかっただろうね。」
私の問いに真由美は、ハッキリとした口調で答えを返してきた。
「まだ三歳の男の子がいたの。それでね、奥さんのお腹の中には次に生まれてくる子がいたの。でもね、女の直感かな、奥さんがね、産んでもいいの?って聞いてきたんだって。」
「真由美の存在が奥さんにバレていたって事だね。それで真由美は捨てられたってことだね。」
「違うの、遼ちゃん、直江津って知ってる? 彼の実家が新潟の直江津ってところなんだけれど、その実家に戻っていたとき、朝、起きてこないからお母さんが起こしにいったら死んでいたの。」
「どういうこと? もともと病気持ちだったっていうことなの?」
「そうじゃあない、健康だったわ。彼ね、家族で実家のある新潟に戻るつもりでいたの。それでね、新潟県の公務員試験を受けていたの。試験がある日だけ実家に戻って、終わると東京に帰ってきて養護施設の保父さんを続けていたの。 すっごく辛いって言っていたわ。あの日が新潟での最後の試験日だったの。でもね、死んじゃったの。」
真由美の頬を涙が伝わって流れ落ちた。
「亡くなって二日後にね私、新潟のご実家に行ってきたの。告別式だけ、私ひとりで彼に会ってきたの。奥様にも逢うことになるし、お子さんにもあったわ。会いにいくのがものすごくためらわれた。私、悪人だものね。でもね、眠っている彼に会えてよかった。会わないでそのままお別れしていたら多分、今も私は彼のことを引きずって生きていたと思うの。」
「心臓発作ってやつだね。残された奥さんは大変だったろうね。」
「うん、そう思う。でもね、お腹の子はちゃんと産んだのよ。紛れもなく彼の子がこの世に二人いるのよ。」
「なんだか嬉しいみたいだね。泣いたり喜んだり。聞いている方は大変だ。」
「それでね、遼ちゃんにお願いがあるの、彼のお墓参りに行きたいの。でも場所がわからないし、私ひとりであの人のご両親に会うのもためらっているの。」
突拍子もない真由美の言葉に驚いて聞き返してしまった。
「そこって直江津っていう所でしょう。新潟だよね、新潟って広いよ。直江津っていう場所だけで、俺自身が会った事もない人の墓を探し出せっていうことなの?」
「ちがうの、彼から実家の連絡先は聞いて知っているの、手帳に書き留めてあったの。だから彼の実家に電話をすれば場所は教えてもらえると思うの。」
真由美の唐突な要求を私は受けざるを得なかった。半同棲の生活はすでに1年以上続いていたが、私は生活費なるのもを一切、支払ったことがない。 男の欲望も真由美に頼りきっていたし、さらに毎晩、晩酌のビールまで与えてもらっていた。