第22話 酒歴
三者面談に家族、もしくは親族を交えておこないたいという看護師に対して、既に離婚をしている私の身を案ずる者はいない。ましたや、ここは精神病院であるから、どんな人間であっても関わりたくはないだろう。
「私は離婚して独り身ですから、誰も来てくれませんよ。弟夫婦が大宮にいますが、共働きで子供も就学前ですから頼んだって来てくれません。両親も死んでしまっていて、いませんから私を保護してくれる親族はいませんよ。」
真実を看護師に伝えた。
「桑名さんは初めての入院ですし、仕事もお持ちですからこのまま復帰という事で良いと思うの。社会復帰が前提なら二者面談にしましょう。来週の火曜日の午後ね、1時から始めます。」
三者面談は『酒歴発表』の予行練習も兼ねている。
『酒歴発表』とは、いつ飲む事を覚えて日常化していった過程を振り返り、文章化する。さらに連続飲酒というアルコールに対するコントロール障害がどこで始まったのか?引き金になり得た要因はなにか? 社会から抹殺されていった記憶を辿って忠実に文章に書き起こす。
自分自身が書き上げた文面を入院患者全員、病院スタッフを含めた者の前でさらけ出すのである。
1週間以上も前から下書きを重ねてストーリー性を持たせる者もいれば、単なる箇条書きの羅列を集約しただけの者もいる。
『酒歴発表』の本番前に病院スタッフによる事前の審査があるので箇条書きでは書き直しを命じられるか、もしくは退院後のライフ・スタイルを綿密なスケジュール表にして提出する。それも6ヶ月先まで書いて、空白の時間を作ってはいけない作業になる。
私の場合は『退院』即、『病院勤務復帰』が決まっていたので、スケジュールを制作・管理される事はないし、行政のお世話になって生活保護を受けている訳でもなかったから酒歴の原稿を書き上げて校正し、発表すれば晴れて自由の身という手はずだった。
これが行政の世話になっている者にとっては生死の別れ道になる。
理由は単純なもので、なぜ自分で稼いでいない者がアルコールを買う事ができるのか?泥酔できるほどアルコールが購入できるのなら生活保護の受給の必要はない。
他人が納めた税金をもらって呑んだくれる人間に文化的な生活を送れる保障は不必要であると報告書が作製されてしまい保護理由が抹消される。
生活保護受給金が貰えなくなってしまったら医療機関からも相手にされない。当然、住んでいたアパートからも追い出されることになり路上生活が始まる。
酒歴発表まで7日もあるのだから自己歴を文章化するには充分だと思い、初稿原稿を看護師に渡した。
「桑名さんの酒歴原稿を全部読んだんだけれど全然、ダメね。書き直してください。」
中堅の看護師に水をさされた。
「どこがいけないんですか?具体的に教えてください。」
私は凄むようにして言い返した。
「う~ん、あのね、アルコールの匂いがしないのよ。無味っていうか無臭っていうか、そんな感じかなぁ。感情が見えてこない。」
「僕はキャバクラのボーイの経験も無ければ居酒屋の店長をやったこともない。単なる行き過ぎた飲兵衛なんです。あいつらみたいな崖っぷちは歩いてはいない。」
客に呑ませているつもりが、その日の売り上げの大半を自分自身の酒代にして、見せかけだけは儲けているような水商売のオッサンの話は腐るほどある。
酔いに任せて「まぁ、一杯呑んでいけよ。俺のオゴリだ」と言って気前よく振る舞ってしまう飲み屋の経営者もいる。
自分で丹念に仕込んだ餃子を、暖簾をくぐって入ってくる客にタダで振る舞い、儲けを一切、考えていないラーメン屋のオヤジもいた。単に夜通し話し相手をしてもらえる仲間が欲しい寂しい男だった。
このラーメン屋は或る晩、姿をくらませた。夜逃げである。