第19話 泥酔の亡霊
アルコール依存病棟での点滴による『毒抜き』が終わると患者たちに強制されるのは自助会巡りである。たいがいの自助会は夜の7時から始まり20時半か21時に終了する。夜のテレビ番組のゴールデン・タイムと重なるから「行きたくない」が本音である。それに季節は真冬である。
「なんで入院している者が夜中に出歩くんだ?」
私の質問に兵頭という名の元教師が「試されているんだよ。」と答えた。
「なにを試されているのさ?」
「呑んで帰ってくるのをナースたちは楽しみにしているんだよ。」
そう教えてくれた。なるほどと感心してしまった。
➖あっ、そういえば、確かにその通りだ➖
外出届をたった1時間だけ認めてもらって「シャバの空気に吹かれてくるわ。」と言い残し、出ていったキツネ似のオヤジはコンビニの横に設置されている自販機に、もたれて泥酔していた。
午後の3時に病棟を出ていったきり、3時間以上経っていたが帰ってこない。スタッフによる捜査が始まると、病院の正面玄関の道を挟んだコンビニでワンカップを7本購入し飲み干していた。2人の看護師に抱えられて私たちの目の前を通り過ぎて行き『ガッチャーン』と音を立ててドアが閉まる通称ガッチャン部屋に直行、隔離された。
『ガッチャン部屋』はいわゆる独房である。
この部屋には便器以外、なにもない。トイレのあとの紙さえ置いていないし、ウォシュレットどころか流す水さえ出ない。蛍光灯が灯されているだけで『呑んだ事を後悔させる』にふさわしい。
もしも『ガッチャン部屋』で暴れたり、大声で「おーい、出してくれ!」などと騒ぎようものなら、さらにその奥にある『恐怖の縛りベッド』が待ち受けている。両手、両足、さらに腹帯までされて、動かせるのは首だけである。
この『ガッチャン部屋』から解放されるまで最低でも48時間を要する。2日間を独居房で過ごして『泥酔の亡霊』の呪縛を取り除く。解放された翌日の朝には患者全員の前で土下座して詫びを入れる。これがしきたりとなっている。
『桑名もキツネのオヤジみたくなりたくないのなら、この入院生活の日々を日記に書き残しておくんだ。ここを退院しても、きっと同じことを繰り返すだろう。連続飲酒が始まったら日記を読み返すんだ。ただそれだけで底なし沼から抜け出せる可能性がある。俺は書いているぜ、桑名に出会えた事も書いてある。言っておくが、自慢じゃあないけれど、俺は4年間で3回目の入院だ。すごいだろう、って本当に自慢じゃあないんだぜ。本当なんだ。底なし沼なんだよ、ここの連中が落っこちて辿り着いている場所なんだ。」
兵頭は「あとがない」が口癖の明るい性格の面倒見の良い中年の兄さんだった。この兵頭とはおよそ1ヶ月間、寝食を共にして将棋を指し合った。
「桑名はさぁ、桂馬の使い方が下手すぎるんだよ。」とよく言われた。
退院後の兵頭がどうなったのかわからない。風の便りでは大阪で塾の講師をしていた、までは確からしい。そのあとが全くわからない。ある日を境にして突然、音信がどこからも入らなくなってしまった。
それがアルコール依存症者そのものを証明しているのだが、この時の兵頭が言った言葉が理解できるまで私は7年の時を必要とした。