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第16話 ヤクザのチンさん

 「どんな同業者がいるのか、ちょっくら拝見!」という気持ちは行動に出て数分で萎えた。


腕を電車に切断された奴、目の玉がえぐり取られ、顔中が傷だらけでうごめいている患者らしき生物、汚物をパジャマの裾から垂れ流しながらほふく前進している奇妙な化け物。


 見てしまった光景に認識が追いつかず、喫煙ルームに戻りタバコを燻らせているとガタイの良いニイちゃんが満面の笑みを隠さずに入ってきた。


 「あれぇ、新人だ。知らない奴がいる。オレ、パッパラパーだから、えへへへ、パッパラパーのヤッちゃん。やってきたぜ、えへへへ、久しぶりに抜いてきたぜ、えへへへ」


 気が狂ったふりをしているが正真正銘のヤクザだ。後日、風呂場で一緒になった時にわかった。身体中にモンモンが入れられていて、色も綺麗に入っている。おまけにヘソの上には名刺代わりと言わんばかりに◯◯組、と彫り込まれていた。


 次に喫煙ルームに飛び込んできたのはチンピラ風のヤンキーだった。髪はロン毛で、どこかのスポーツチームのキャップを被り、大きいピアスを両耳にぶら下げてヒョロヒョロとした歩き方をしながら、さっき私がおこなった同じ手順でタバコを燻らせた。


 「アニイ、いい女だったよ。アニイの方はどうだった? あれで三千円なら来週も行こう。ただ手だけじゃあなぁ。」


 わずか1時間にも満たない病棟生活で「逃げる」という言葉が頭の中を埋めつくした。だがここは精神病院であって病棟の入り口に施錠がしてある。各部屋の窓はせいぜい5センチしか開かない。たとえ脱出に成功したとしても今度は建物全体にロックが掛けられている。


 まさに「刑務所」である。


 「夕方の4時までなら中庭にいてもいいわよ。」


 私をここに連れてきた看護師の言葉に従って、出口への鍵を開けてもらい外に出た。鍵は二重に施錠されていて脱出もできないかわりに入場も認められない。


 私が入院したのは2007年12月7日だと記憶している。


中庭の桜は木の幹と枝だけで単なる大木に過ぎず、落とし忘れた葉もあったが、冬風に揺られているだけだった。


 ➖この木に花が咲くまで、ここで監獄生活を送るのか。落ちぶれたものだ➖ 


 そう思ったら自然と涙が溢れてきた。はじめは伝って流れ落ちる涙であったが、いつの間にか溢れる思いがあとを絶たなくなっていた。


➖誰でもいいから話がしたい。誰でもいいから、ここから連れ去って逃してほしい➖


 涙で歪んだ視界には冬の闇が間近かであることを教えてくれていた。


➖なぜ、この俺が精神病院にいるのだろう➖


脳の端っこで何かが失われていく絶望を感じていた。



「おーい、朝だぞ!ケッコー、ケッコー、コケコッコー!」


目覚まし時計をガチャガチャ言わせながら廊下を走り廻る。起床の登板を自ら買って出たヤクザの通称チンさんは容赦なく明け方5時には各部屋を巡回する。なぜ、チンさんというあだ名になったかと言うと自分のイチモツから溢れ出す欲求を如何に処理するかだけに没頭する入院生活を送っていたからだった。


『外出届け』の真の行き先は「昼サロ」だったり、昼間から営業している「ソープランド」だった。


 帰院前に弁当屋さんに寄ってきてはオードブルの大きい銀皿を3つ、4つ、持って帰ってくる。夕食時の各患者のテーブルに「食っていいよ!」と気前よく、置いて配る。


チンさんは紛れもなくその筋のお方であるが、それ故に優しかった。私が恐れをなした「便だらけの徘徊ジイさん」とよく入浴を共にしていた。今で言うなら入浴介助を自ら進んで誰にも言わずにおこなっていたのである。


 この徘徊ジイさんは「当院ではこれ以上は無理です。」と見捨てられて追い出されていったのだが、アルコール専門病棟を去る間際にチンさんの手を握りしめて号泣し「ありがとう、ありがとう」と言い残して連れ去られていった。



 

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