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第119話 農薬入りのウォッカ

 夜の闇を待った。何故か死すべき時は夜が良い。汚らしいソファーに身体を横たえると、いつの間にか眠ってしまい、虫の羽音で目覚めたようだ。雨はやんでいて、高尾の空には星ぼしが悲しげに輝いていた。


 茶色の瓶を手に握りしめキャップを開けた。色は闇に紛れていてよくは見えないが、星の光にかざしてみると透明のようだ。


 ウォッカの瓶の飲んで空いた空間に農薬を混入させ、手で振って混ぜ合わせたが泡などは出てこない。タバコに火を点けて肺に煙を含ませてから上空を見上げ、星ぼしのパノラマの中に向けて吐き切った。


 誰かに宛てる遺書などない。それに未練もない。農薬の入ったウォッカを口に入れて喉を貫通させた。さっき飲んだ時には刺激を感じなかったのに、激しい刺激が喉を襲う。さらにもうひと口を飲み込んで、タバコを口に運ぼうとした時だった。喉の奥と身体の中から激しすぎる痛みが襲いかかってきて、ソファーから転げ落ち、ミゾオチと首の根本を押さえつけて嘔吐を繰り返した。胃袋には捻じられたような激痛と、喉は奥の奥まで農薬で切り裂かれたようだ。


 何度も吐いたが、吐くたびに農薬が逆流して、喉を通過する度に激痛が加わってくるばかりで転げ落ちるようにしながら雑草の中や雑木を抜け出し、登山路らしい小径に辿りついた。意識はある、酩酊もしていない。だからこそ死の恐怖を感じられたのだと思う。


 自分自身でおこなった死への道を逆走しようともがき始めたのである。


 もはや立つ事も歩く事こともできない、膝が立たないのである。口からは嘔吐物と共に粘りが強い唾液を垂れ流しながら駅へ続く道を転げ落ちていった。


 辿りついた場所は駅ではなかった。おそらく駅とは反対側の麓へ落ちていったのだと思う。舗装されたアスファルトの路の端にうずくまるような肢体で横たわっていた。立ち上がる力はない、ただ身体をよじり動かすことで路上に近づくことができた。


 白い色の軽トラックが私を見捨てて通り過ぎていく。声を出して自分の存在を教える力さえも残っていなかった。それでも口を開き、声を出そうともがき苦しんでいると、黒澄んだ血の塊が吐き出されてきた。


 ー これで終わった。やっと終わった ー


 うつ伏せに倒れたまま左手だけを頭の上まで伸ばして道端に咲く小さな黄色い花をさわった。


 朝の光は山に邪魔されて私を照らしてはくれなかったが、陽光は緩やかにそそぎ始めて、うっすらとし始めた景色が時間の経過を教えてくれている。


 ようやく意識が消えていこうとしていた。寝そべっても見えていた風景は歪んで、彩色を消し去っていく。霧がかかり精神が我が肉体から剥がれ取られようとしていた。


 道のずっと遠くから真っ赤な色をした自転車が私の倒れている方向へ向かって走り、近づいてきている。私の汚れた肉体には目もくれずに通り過ぎようとした時だった。


 「遼平、生きるのよ。遼ちゃん、生きなければダメ」


 自転車に乗った母は私をなぜか見つめる事なく声だけを残して通り過ぎていった。私はこの光景を肉体を介して見ていたのではない。母が私に手を差し伸べたわけでもなければ、自転車から降りてきて救いの手を差し出したのでもない。


 ただ声で、懐かしい聞き覚えのある声だけで「生きるのよ、生きなければダメ」と私を諭すように言い残して消えていった。

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