第116話 脱走
このテスト、結果から言ってしまうと私は不合格だった。
あの日、自宅に戻って鍵をバッグから探し出そうとしたが、自宅のドアの鍵を病院に置き忘れてしまった事に気が付く。裏側に回って窓のサッシを上下に何度も動かしながら少しづつロックを上へ上へと移動させようと試みてみた。この方法で小学生時代、教室の窓は簡単に開けられたのだが時代の進化と共に防犯も進歩していた。
結局、交番に行って事情を説明して身分証明書も提出し、鍵の専門家に来てもらい、ものの3分程度で解錠できてしまった。技術料と出張料金合わせて六千円も取られた事を今だに覚えている。このため、自宅に着いてから室内に入れるまで二時間も要した。
この時点で私は強制的ではあるけれども55日間の禁酒に成功している事になる。しかし台所に行って冷蔵庫を開けると、私の帰りを待ち侘びていたかのように大震災時に買い溜めしておいたビール缶3本を見つけてしまった。
一度は台所の流し台に捨ててしまおうと考えたが『飲む事がこのあと、やってくるかもしれない』ともったい無く思い冷蔵庫に戻しておいた。
入院前に居間は綺麗に片付けてある。アルコールの残骸たちも小蝿の死骸も一切ない。
テレビを点けて、独りでポツンとしているとコマーシャルが飛び込んできた。目にではない、喉元の感触として飛び込んできたのだ。
『今年のビールはひと味ちがう!さぁ、飲んでみようよ◯◯ビール!新発売!」
全くもって楽しそうな声で私に語りかけてきた。これで不合格決定になった。
冷蔵庫の中で私の帰りを待っていてくれた切ないほど愛おしいビール達を口に運べば、あの荒れ狂った異常者に二度と会わなくて済む。精神に異常をきたした者たちと縁が切れる。
飲むべきだ。飲めば今ある恐怖からは解放される。
私がこの日、自宅でビールを3缶空けたあと、どこでどういうふうに飲み明かしたのかは覚えていない。翌日、午後五時ごろに入院先である精神病院の看護師から私の携帯電話に連絡が来た。帰棟予定の時間はとっくに過ぎていた。
「ダメよ。今すぐに戻ってきなさい。桑名さんの話は今夜、聞くから」
そう看護師に言われても、すでに泥酔に近い状態になっていたので病院に戻る選択肢は残されていない。
「あんな恐ろしい人達のいるところになんて戻りたくありません」
私はそう言い放って通話を勝手に切った。入院時に持ち込んだ私物もすべて置きっぱなしにして脱走したのである。55日分の入院費用も未払いのまま県立の精神病院と一度は縁を切ったのである。
脱走して自宅にこもる日々が続いた。ネオンの灯る飲み屋街に足を向ける事はなくなり、独りで家飲みをするようになっていった。ネオンの下に足を踏み入れなかったのは金がなかったからだ。
姥捨山病院からは何の連絡もなく、雇用された状態のままなのか、解雇されているのか判らなかったが、戻る気は全くなかったので気にはしていなかった。ただ姥捨山病院のレントゲン室に僅かだが私物を置きっぱなしにしたまま入院生活に入ってしまったので、取りに行きたいものが少しだけあったがそのまま放置していた。
私はアルコール依存症者なのだから、同じ行動を繰り返す事になる。コンビニエンスストアかスーパーマーケットに行ってウイスキーと発泡酒を数本づつ買っては自宅で飲む。この連鎖の繰り返しだけになっていた。
住宅ローンは遅延申請した挙句に滞納するようになっていった、我が子の養育費もいつの頃からか支払わなくなっていた。別れた妻から催促されなかったのは、彼女が再婚に向けて準備に入っていたからだと、のちに知る。




