第115話 麻薬密売人
この小杉が言うには「ヤクは即効性のあるパラダイスを運んできてくれる、だから止められなくなる。だが末期症状に陥ると勘ぐりが始まる。自分の廻りにいるすべての者が敵に感じられ、刑事に思えてくる。自分を追い詰め、内定している密告者になる」そうだ。
その結果が無差別殺人や路上殺人を起こしてしまう。
「1度でも打ったら終わりだよ、止めたくてもあのパラダイスは忘れられないよ」
翌朝、小杉が言ったとおり覚醒剤の売人らしい男はガッチャン部屋から解放されて喫煙スペースに直行し、黙々とタバコを吸っていた。髪の毛は黄色く染められ、腕から脚までモンモンが掘り込まれている。腕の太さは私の倍ちかくあって『こいつを怒らせたら殺されるかもしれない』と感じた。
だが、この売人は全くの無表情で言葉もなく、ただタバコを吸い続けるだけであった。
お昼ご飯を積み込んだ配膳車がまもなく到着する時間になっていた。
突然、鍵の掛かっている依存症病棟に副院長らしき医師と刑事、警官の複数名が縦に並んで入ってきた。
密売人を取り囲み「悪いんだけれど、事情が事情だからね。君の事を本格的に取り調べたいって警察が来たんだよ。うちの病院では君の身は引き受けられないよ。わかるよね」
副院長らしき医師の言葉を合図にして、売人の手首にはワッパがハメられ腰には縄を巻かれて連れ去られていった。売人が食べるはずだった昼食は私が頂いた。
私はこの埼玉県立の精神病院を55日で退院してしまう。本来ならば三ヶ月間のプログラム入院であり、90日間の予定なのだが恐怖心に勝てず、脱走する事になる。
アルコール依存症者も覚醒剤依存症者も離脱に入ると精神状態が不安定になる。ある者は落ち込み、うつ病のようになるし、逆に精神状態の異常な高揚を怒りに変えて他の入院患者に刃を向けてくる。
ほんの些細な事でも苛立ちを隠さず標的を作り上げてしまう。例えば蛍光灯の寿命が来て、点いたり消えたりを繰り返す現象に怒りを爆発させる。
「なんで、さっさと取り替えないんだ!俺たちのことを人間扱いしていない証拠だ」
そう看護師に怒鳴り散らしていた者がいた。逆に落ち込みと不安症がひどくなってしまい、針金でできたハンガーを何度も折り曲げながら切り取って、先端を左手首に刺し貫通させた患者もいた。
拳で病棟の壁に穴を開けて強制退院させられた者もいたし、外出届を出して近所のクリニックを巡り歩き、処方箋を複数枚騙し取る。二週間分処方されたデパスという精神安定剤を一気に80錠飲み込んで、呂律が廻らなくなりながら帰棟した者もいた。
この患者たちは皆、強制退院させられていったが、行く場所がなく病院の敷地に接した路上で雨の中、傘で顔を隠すように覆って立ちすくんでいたのを何度か見た事がある。
モノが無くなるのは日常茶飯事で、徹底的な犯人探しが始まるのだが、奪われるモノがどうでもよいものばかりだった。食事を潤すためのふりかけとかタバスコとかティッシュペーパーのボックスだったりする。こんなものが無くなったってどうでもいいと思うのだが、これが大問題となり暴力沙汰へと発展して強制退院となる。盗んだ疑いを掛けられた患者の中には殴られる前に姿を消してしまう者もいた。
私の場合は窃盗の疑いを掛けられた訳ではなく、また脱走しようと予定して実行したのでもない。たまたま提出した外泊届けが受理されて、自宅に戻ってきてしまった。
お試し外泊という事になる。閉鎖された病院の環境下から解放されてもアルコールを一切飲まずに帰ってこられるか、という例のテストであった。




