第114話 覚醒剤依存症者
看護師の言った「待ってて」の言葉にただ「はい」とだけ返事をしながら造り笑顔で反応していたが、この女性が重度のうつ状態である事は容易に感じ取れた。
今まで入院してきた二つの病院とは何かが違っている。担当医となる医師の直感力、洞察力にのちのち驚かされる事になるのだが、私自身、4回もの入退院を繰り返す事になる埼玉県立の精神病院、依存症病棟はアルコールのみを扱っているのではなく処方箋依存、S E X依存、覚醒剤依存患者を受け入れる専門性の高い医療施設であり、県立ではこの1施設しかない。
私はこの入院で初めて薬物依存、いわゆる覚醒剤依存症者と出会う事になる。正直な感想を吐露すれば、怖かったが本音である。目つきが異様に鋭いのである。
「スピードって知っているか?」と聞かれても私にはさっぱりわからない。
「あれは即効性があって、たまらないんだよなぁ」
半袖のTシャツからはタゥーが見えている。ふくらはぎにもタゥーが彫られていて、そっち関係の者かと思えた。
「ハッシなんてダメさ、コカだね。ヤクはやっぱりアブリより直管が最高だぜ」
私の居場所ではないと確信した。覚醒剤なんて見た事がない。テレビのニュースだけでの知識しかない。末端価格の末端の意味さえ知らなかったし、どこで売っているのかも知らない。
「あそこの駅の北口にテレクラがあるだろう。あそこに行って、俺の名前を出せば売ってくれるよ、ただ純度の高いものは高額だぜ」
確かにその場所に言われたその建物はある。しかしクルマで通り過ぎただけで、立ち寄った事などない。
「昨日さぁ、入院してきた奴がいるんだ。今はガッチャン部屋に入れられてるんだけれど、あいつは売人だ。警察の内定に気が付いて自分から入院してきたんだ、身を隠すためにね」
そんな奴に会いたくもない。
「まぁ、明日になればガッチャン部屋から解放されるから。俺のマブダチだ、よろしく頼むぜ」
そう言われても私とは何の接点もない、単なる威圧行為を受けているだけだ。
アルコールや覚醒剤など、いわゆる依存症の専門病院にはひとつだけ、他の医療施設にはない特殊なルールがある。入院患者全員が参加しなくてはならない『夜のミーティング』というものが毎晩、90分間おこなわれる。お題は決まっているが、何を話しても良い。
この『夜のミーティング』で私はある日、次のような事を患者全員のいる前で喋った。
「いま、介護施設に入っていらっしゃる八十歳代のご老人たちは戦争というもので青春時代を犠牲にし、友人や家族を目の前で失った方々である。苦しい時代を生き抜いた人達がお歳を召されて今、介護が必要とされている。敬うべき理由がある。また、この方たちのあとに生まれてきた方々は高度経済成長を背負って、日本を支えてこられた人達であり、やはり尊敬すべき時代の日本人である。
なのに、そのあとを継いだ我々はいったいどのような苦労をしただろうか。戦争もなかった、飢えることもない。皆がみな、中流の上という意識の中で生きてきた。バブルに乗って遊び呆けて、その顛末が依存症である。
そんな甘ったれた時代のアル中に税金を使って、遊ばせて治療する必要がいったいどこにあるというのか」
なぜ、こんなことを言ってしまったのか、さっぱり覚えていないのだが、覚醒剤の常習者である小杉と名乗る男からお褒めの言葉を頂いた。
「桑名はどうも俺たちと同じ考え方をしているんだよ。仲間に入れてやる、だが、抜けようなんて思ったら半殺しにあうぜ」
小杉がいう仲間とは『右』のことである。良い意味でも悪い意味でも街の実力者だった叔父と同じ組織のことだ。




