第113話 洞察力のある医師
二日後の月曜日だったと思う。私が住んでいる街の社会福祉協議会に生活費を借りられないかを聞きに行っている。二万円でも三万円でもいい、この程度の金額を無心したのである。
「桑名さん、ここでお貸しする方は返せる目途がある方だけですよ。あなたの場合、生活費の相談ではありませんよね」
こう言われて、そそくさと退散したのだが、途中、事務職員の中に小、中学生時代の同級生がいて、目を逸らしながら退散するという恥ずかしい思いをした。
社会福祉協議会を出ると、その足で街が運営している健康相談所へ行っている。対応して頂いたのは、おそらく看護師免許取得者か保健衛生士だと思う。自分の身に何が起きていて、何をして欲しいのかを切実な思いで話してきた。
助けが欲しかった。誰でもいいから私を救い出してくれる人に縋りたかった。これまでの私の人生の中で出会った人ではアルコール依存症の沼から私を引き上げてくれそうな人はいない。そう感じて行動をしたのだと思う。
私の話を聞き入ってくださった女性は一旦、席を外し再び戻ってくると埼玉県で唯一の県立精神病院を紹介してくれた。病院を紹介するパンフレットを頂いた訳ではなく、のちに解る事なのだが初対面である私の存在を、この時点で県立精神病院に連絡していたのだった。
自宅に戻ると居間を占拠しているビールの空き缶とウイスキーの瓶をすべて捨てるために、自宅から1番近いスーパーマーケットのリサイクル用資源ゴミ回収ボックスへ運ぶ作業を始めた。ウイスキーの瓶は105本、ビールの缶は127個あった。これらを市販のゴミ袋に入れて、クルマのトランクに積み込んで5往復して全てを撤去した。
小蝿は殺虫剤のスプレー缶1本を使い切って全滅させた後、掃除機で吸い取り残骸のすべてを消し去った。たったこれだけの作業をおこなうだけでも居間は綺麗に片付いた。
窓の鍵をすべて閉めて、火の元を確認し、自分で運転して埼玉県のとある街にある県立の精神病院へ向かった。道中はおよそ1時間半といったところだろう。この時、私は荷物らしい荷物は持っていっていない、にも関わらず自宅を長期に渡り留守にする行動を取っている。
今まで入院したアルコール専門病院と同じく外来受診から始まったので、待ち時間は相当長かったように記憶している。並べられた椅子のずっと奥の方には透明な敷居で区切られた喫煙ルームが設置されていて、いかにも精神病院らしいなぁと感じた。
今では喫煙ルームは公共機関に設置されていないが、アルコール専門病院に喫煙室が設置されているのには理由がある。アルコールを絶つまえに、まず禁煙が必要であるとなるとハードルを上げてしまい、アルコール依存症と自覚があっても受診に来る患者の妨げとなってしまう。絶つべきものはアルコールだけで良い。
おそらく身長が160cm台だと思われる白衣を着た男が私の傍に来て「どうぞ、こちらへ」とだけ言われた。うしろをついて行くと誰もいない診察室に入っていった。どうやら、この男が医者らしい。私よりも少しだけ歳下のように思えた。
診察室に置かれた黒い回転式の椅子に座ると開口一番「あ~たの事は知ってるよ。全部、あ~たの住む街の保健師から電話を数回もらって聞いている。いつになったら現れるのかと思っていたけど、やっぱり飲んでいたんだねぇ、で、どうするの?」
唐突に「どうするの?」と言われても、一体何をどうするのか理解が及ばない。
「飲むの、飲まないの?通院でいいの、入院するの?」
矢継ぎ早の言われっぱなし状態になったがすべてを見抜かれていた。
「いやぁ、入院はちょっと・・・」という間も与えてもらえずに「まぁ、今すぐ病棟の空き状態を調べるから待ってて」
椅子を半回転させて、備え付けられた電話を使い、誰かを呼び出している。二人だけだった診察室に呼び出されて入ってきたのは私を担当する事になる看護師とケースワーカーの若い男性だった。
「部屋の空き状況が判るまで時間が掛かりそうだから、先に採血と血圧を測定しちゃいましょう」
今、通ってきた廊下を逆戻りして、受け付け手前にある白いカーテンだけで入り口が塞がれている部屋まで戻されていった。廊下の端々には三人掛け用のソファーが置いてあり、若い、おそらく二十歳代と思われる女性が独りで座っている。その瞳に輝きはまったく感じられない。




