第110話 未曾有の大地震
2011年3月11日、この日は金曜日だった。
私は姥捨山病院でこの日を迎える。午前中に古くなって使い物にならなくなっていたレントゲン機器を新しい物に入れ替える作業をし終えてひと段落していた。
いつも通り、入院患者に提供される昼食メニューと同じものを食い終えて、近くの公園に行き、タバコを数本吸ってから職場に戻った。戻ってきてもするべき仕事はない。
午後2時46分、正確な時間はこの文章を記述するにあたって調べ直したが激しい揺れに驚き、病院の裏口から外へ飛び出した。
病院周辺の家屋やアパートも激しく揺れていたがガラス窓が割れたり、倒壊する場面には遭遇しなかった。私が経験してきた地震の中では最大の揺れであり、屋外に逃げるという行動を初めておこなった地震だった。
この時、私が思っていた事は『埼玉のこの地で、これほど大きい揺れがあったのだから、震源地が遠方だったら大変な被害が出ているかもしれない』
この単なる思い込みが的中していると知らされるのは帰宅してからになる。レントゲン室には情報を与えてくれるテレビもラジオもないし、そもそも電波受信が難しい。
夕方の五時まで勤務場所に居続けていたので東北地方で起きている事を全く知らないで帰宅した。
自宅に損傷は見当たらず、灯は点く、水道から水も出た。ただプロパン・ガスだけは安全装置が作動していた。
何気なく近所のスーパーマーケットに行って、事の重大さを知ることになる。インスタント食品が棚にない。飲料水のペットボトルも売り尽くされている。
レジの前には今まで見た事のない長蛇の列が出来ていて、どの買い物客のカゴも食料品と飲料水が大量買いされている。
スーパーマーケットの斜め向かい側にあるコンビニエンス・ストアに移動して私が購入したものは発泡酒とウイスキー、それにタバコだった。今夜飲むための本数ではなく、大量購入した、いわゆる買いだめをおこなった。
自宅に戻り、テレビの液晶画面に釘付けになって津波から逃げようとしている車両の群れを見つめた。今に至るまで、あの時の動画がテレビ番組で使われていないのだから、畑の中のあぜ道で立ち往生していた車両の群れは運転手ともども津波が飲み込んでいったのだろう。
翌、3月12日、土曜日。この日も通常の勤務であったが午後一時が終業時間で、私は自家用車で帰路を走っていた。クルマに備え付けられているラジオはTBSにチューニングされている。この当時、フリーアナウンサーとして活躍していた久米宏の『ラジオなんですけれど』という番組の放送を聞いていた。
この番組内でメインキャスターである久米宏氏と福島県の男性が電話を通しての会話型の中継がおこなわれた。
福島の男性が声を大にして言っていた事がまさか的中するとは思っていなかった。
「福島第一原発が水素爆発したら日本は終わりです」
私はこの男性の言葉を『ありえないこと』だと受け止めた。しかし、実際には誰もが知っているように原発は次々と爆発していく。メルトダウンという聞きなれない言葉が飛び交い、建屋の上空をヘリコプターが飛んで悲劇的な状況を一部始終、映像として送り続けていた。
剥き出しになった原子炉がテレビ中継され私の目に製造会社のロゴが読み取れた。この瞬間、私に襲いかかろうとしている現実に気が付いた。
この製造会社は東日本大震災の二週間前に新興国に対して原発の輸出、ならび技術提供を発表していた。この情報をきっかけにして、この会社の株に買い注文を入れていた。
さらに悪いことに、私が保有していた銘柄は当事者である電力会社、義援金を募ってATMにシステム障害が生じた銀行、タンクごと大爆発した石油会社など、そのすべてがこの大地震で影響を受けるものばかりなのである。
自分では分散投資していたつもりであったが地震という未曾有の自然災害を前にした時に分散はなんら意味を持たなかった。




