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森近霖之助は頬杖を付いたまま、パソコンのディスプレイを手慰みに撫で付けた。
埃の付いた黒い液晶画面には文字ではなく、詰まらなそうな男の顔が映る。
嗚呼、と退屈な声がつい漏れた。
霖之助が住み、そして営んでいる香霖堂は魔法の森の入り口にあたる場所に建っている。
そこは気軽に来るには人間からも妖怪からもやや遠く、殆ど毎日が開店休業の有様だった。
尤も、趣味人として生きる霖之助にとって退屈は歓迎するところだ。しかし、最近は趣味である珍品集めも中々捗っておらず、欲求不満が積もる日々である。
霖之助は重い腰を上げ、収集品が飾られた店内の棚を巡る。古今東西の品々は発見した時にあった筈の輝きを失い、褪せた色合いを隠すようにどれもこれもが埃を纏っていた。
霖之助はそこから一つ、縁が欠けた皿を手に取り、息を吹き掛けた。そして、無感動に袖で拭い、どうにか売り物としての体裁を保てるように綺麗に磨き上げると、溜め息と共に棚へ戻す。
視線を横へ滑らせば、同じような物が幾つも目に入る。その途方の無さに疲れを感じ、霖之助は手を止めて表へ出た。
そして、香霖堂と記された暖簾を下ろし、営業中と記された木の札を裏返す。
香霖堂、本日閉店なり。
霖之助は暖簾の棒で肩を叩きながら、欠伸混じりに店内へ引き上げる。
それから暫くして、霖之助は再び軒先に現れた。
活発に遊ぶ気力は無いが、賑やかな場所にでも行って、その恩恵に少しでも与りたいと思ったのだ。
入り口に鍵を掛けながら、行き先を考える。
一先ず、人間の里へ向かう事に決めた。
かつて、霖之助は人間の里で暮らしていた。自分の店を持つまで、里の霧雨道具店に住み込みで働いていたのである。
出不精である霖之助は久々に人間の里に訪れ、折角だからと、真っ先にそこへと向かった。
その道中、霖之助は里の人間達から親しげに声を掛けられた。その度に霖之助は彼等の顔を見るが、霖之助自身は彼等の事をあまり覚えておらず、愛想よく断りを入れ、逃げるように擦れ違い続けた。
そうして辿り着いた先で、霧雨道具店は賑やかな活気に包まれていた。
霖之助は懐かしく思え、往来から店の様子を眺める。
店内には客が常に何人か居り、店主は常連客と世間話をしていた。しかし、他の客から声を掛けられると、話を切り上げて丁寧な接客を始めている。
この光景は霖之助が働いていた頃と殆ど変っていない。ほんの少し、店主の動きが年齢を感じさせるように鈍くなっているが、店には寂れる素振りすら見えなかった。
ふと、時間を忘れる程に霖之助はそれを眺めて、香霖堂の現状と照らし合わせる。
店の規模、来客数、品揃え。その何もかもが深く考えるまでもなく、明らかに違う。しかし、霖之助が考えたのは、そのような違いではなかった。
霖之助と霧雨の店主。それぞれが店に注ぐ、情熱の違いだった。
霖之助は趣味で、霧雨の店主は商売で店を始めた。
しかし、始めたのは霖之助のほうがずっと後にも拘わらず、抱いていたものは霧雨の店主よりもずっと早くに失おうとしている。
趣味と商売では、どこが違うのだろう。
霖之助は疑問に触れ、その大きさに思わず唸る。
生きる為に金銭が必要だから商売は辞める事が出来ない――。当然、それもあるだろう。しかし、それだけでは納得出来なかった。金銭が無くとも、不便を受け入れれば生きていける。金銭も趣味も、快適に生きるためのものという意味では等価の筈だ。
ならば、趣味ではなくなったのだろうか。霖之助は考え、直ぐに否と出す。昔からの収集癖が今更無くなるとは思えず、仮にそうであれば、それは何らかの病気になったと考えた方が良いのではないか。
そんな風に、思考が堂々巡りをしている時だった。
「今後とも御贔屓に」
「ああ、是非ともそうさせていただく」
久しい声によって、霖之助の視界は再び現実を映し出す。
風に棚引く、淡く、蒼い銀の髪。
上白沢慧音。今は寺子屋で教師をしている、半獣の女性。
――霖之助の、初恋の相手であった。
「やあ、慧音。久しぶりだね」
霖之助は家路につく慧音を追いかけ、その後ろから声を掛けた。
初恋といっても、それはもう何十年も前の話であり、気持ちを口にした事も無い。昔ならいざ知らず、今では恋慕の情も薄れてしまっている。
慧音が振り返る。その弾みで顔に掛かった髪を手で軽く掻き分けて、彼女は微笑んだ。
「懐かしいな、霖之助。何時振りだ?」
慧音は昔と変わりない。霖之助は僅かな所作を見て、そう思った。
「ざっと五、六年になるかな。元気そうでなによりだよ」
「そんなにもなるか」
「君は僕が開業したときにしか来なかったし、僕も里にはあまり来なかったからね」
「それは仕方ないさ。お前の店に行かなくても大抵の品物は里で手に入るからな。霧雨道具店という対抗相手が既にいるのに、似たような商売をよく始めようと思ったな」
「あそこの親父さんは魔法の道具とかを嫌って、普通の道具しか置こうとしないからね。そんなのは詰まらないじゃないか」
「変わった理屈だな」
「そうだろう」
「お前の事を言っているんだぞ、霖之助」
慧音に呆れられ、霖之助は思わず苦笑いで誤魔化そうとする。
「いや、でも普通じゃない道具も無ければ無いで困るだろう?」
「素人考えだが、そういう特殊なものは仕入れが難しい以上、商売人なら嫌って当然じゃないかな。品切れで隙間の多い陳列棚は見栄えも良くない。霧雨道具店は品揃えの豊富さと在庫切れしない事を売りにしているからな」
「ああ、まあ、もしかしたらそういう理由もあったのかもしれないね……」
納得させられ、霖之助は頬を掻く。そして、「それはさておき」と強引な手法で話を戻した。
「色々と話したい事があるんだ。時間はあるかい?」
「あるが……、荷物を家に置きたいな」
慧音の手には白いビニール袋が提げられている。はちきれんばかりに膨らんでいるそれは彼女の掌に食い込んでいた。
「持とうか?」
「迷惑は掛けられない」
「いいから」
霖之助は慧音の手から荷物を受け取ろうとする。
遠慮していた慧音も諦めたようで、霖之助に荷物を預けた。
ずしりとした重みが霖之助の手に移る。
「これはまた、随分と重いね」
「最初は蝋燭だけを買おうと思っていたが、店に居ると欲張ってしまってな。よく出来ているよ、あの店は」
「……袋が破れないかな」
「そうなるかもしれないな。まあ、落とさないように頼むよ」
心配する霖之助を横目に、慧音は労わるように手を擦りながら自宅へ向かう。
袋の下にもう片方の手を添えながら、置いていかれないように霖之助は彼女の背中を追いかけた。
家まで荷物を運んだ霖之助は、そのまま慧音の招きに与り、居間で茶を頂く事になった。
茶を淹れてくるからと慧音は台所に消え、霖之助は居間の座布団の上に正座しながら、興味深そうに部屋を眺める。
霖之助が慧音の家に入ったのは今日が初めてだった。玄関までなら何度かあったが、居間に上がり込んだのは今まで一度たりともない。
不思議な感慨に耽りながら、霖之助はなんともなしに卓袱台の上に手を置いた。
綺麗に手入れされているのか、その天板には霖之助の顔が映り込む。少しは退屈が紛れているような顔だったが、やはり詰まらなそうな顔である。
暫くして、慧音は茶と饅頭を盆に載せて居間に入ってきた。卓袱台の上にそれを置きながら、彼女は霖之助の向かい側に座る。
「それで、話したい事とはなんだ?」
率直に慧音は本題に入る。
実のところ、霖之助はそこまで考えていなかった。
手始めに天気の話でもして、近況を訊ねて、それから昔話でもすれば気分が晴れる気がして、慧音に話し掛けたのだ。
それがどうした事か、慧音は深刻に受け止めたらしい。茶にも饅頭にも手を出さず、真摯な表情で霖之助の顔を覗き込んでくる。
喉が渇き、何やら悪い事をした気がして霖之助は顔を赤くした。
「大した事じゃないんだ。……本当に」
まず、それだけはどうにか口にして霖之助は茶を啜る。熱い茶だった。喉が焼けそうだった。
「本当か? 辛そうな顔に見えたが」
「それは気のせいだよ。生活に困っても、病気になってもいない」
「……そうか。それならいいが」
腑に落ちない顔で慧音は茶の入った湯呑で手を温める。
「大した事じゃ、ないけど……」
霖之助は口を動かしながら、話の種を探す。
天気の話は差し障りないが、どうせ二言三言で終わってしまう。昔話もいいかもしれないが、何故か慧音以外の昔馴染みを思い出せないのでやめたほうがいい。そうなると、今の霖之助には仕事や趣味の話しか思い付かなかった。
「そう……、慧音は確か、人間の為に歴史書の編集をしているんだっけ。あれはどれくらい進んだんだい?」
「ん、興味があるのか?」
「いや、僕はそれなりに長生きしているから」
霖之助は人間と妖怪のハーフであり、見た目より何倍も生きている。大昔は無理だが、それでも近代の歴史なら経験として覚えているので歴史書に頼る必要はあまり無い。
「ただ、遠大な作業だと思ったからね。歴史は日々積み重ねられていくものだし、新しく発見される事もある。終わりなんて見えないだろう?」
「そうだな」
「まだ、やっているのかい?」
霖之助の記憶が正しければ、慧音が歴史書の編集を始めたのは数十年も昔。霖之助が香霖堂を開くよりも前だ。
慧音は首を縦に振った。
「終わる事は無いし、自分から終わらせる事も考えていない。あれは私が死ぬか、人間が滅亡するまで終わらないさ」
「利益が出る訳でもないんだろう?」
「まあな。それに基づいた歴史を寺子屋で教えたり、希望者に貸し与えたりする事はあるが、金銭を求めた事は無い」
「よく続けていられるね」
「生き甲斐の一つだからな」
「やっぱり、達成感があるのかい?」
何気ない質問のつもりだったが、慧音は首を捻った。そのまま饅頭に手を伸ばし、口に含む。それが喉を通るまで、些かの時間を要した。
「そう言われれば、あまりないな。義務というか、趣味というか、そんな気分で今まで続けてきた」
「歴史書の内容に一区切りが入ったときとか、世の中に貢献したと思えたときとか、そんな時にも?」
「前者は終わったと思うだけで、後者は実感した事が無い。歴史書が無くても人間が少し困るくらいだからな。そんな事で困る姿を見たくないから私は書いている訳だが、この程度で貢献したなんて烏滸がましいとも思っている」
「いやいや、立派な事だから。少しくらい威張っても罰は当たらないって」
「……ふむ、そういうものか」
「ああ、僕のガラクタ集めよりも余程ね」
霖之助は店に置いてきた、ガラクタと表現した収集品の数々を思い起こす。
慧音が続けてきた歴史の編纂と比べれば、珍品収集など、まるで無意味なものに感じた。その上、続ける気力も失われかけているとなれば、ここいらが止め時なのかもしれない。
迷う前に処分しようと心に決め、霖之助は背筋を伸ばす。
「お茶、ごちそうさま。用事が見つかったから、僕はもう帰るとするよ」
腰を上げて、霖之助は歩き出す。
慧音は驚いたのか、湯呑みを持ったままの姿勢で暫く固まっていた。よく見れば、湯呑を揺らし、うねる水面を眺めている。
何か考え事に夢中なのかもしれない。そのように捉えて、霖之助は廊下に繋がる障子を開けた。
「――いや、ちょっと待て」
突然、弾かれたように慧音は立ち上がった。その勢いで湯呑が倒れ、茶が零れる。霖之助はそれに驚いて振り返り、そして焦ったように近付いてくる慧音と頭をぶつけた。
二人して筆舌に尽くし難い疼痛を味わい、互いに一歩離れる。
「ば、ばか……。いきなり止まる奴がどこにいる」
「だって、湯呑が倒れたから……」
「それはそうだが……」
考えようとすると、更なる頭痛が慧音を襲った。彼女はよろめきながら居間の畳の上に座り込み、両手で額を押さえる。意図しない形での頭突きだったからか、その額は僅かに腫れていた。
自分がこうなったのだから、霖之助も怪我をしているのではないか。
慧音は咄嗟に振り向いた。霖之助は傷の様子を確かめるように手を何度も額に当てているが、腫れていないようである。
「慧音。大丈夫かい?」
見られたのだろう。心配そうに霖之助は声を掛けてくる。慧音は倒れたままの湯呑を起こしに卓袱台へ戻りながら、曖昧に首を動かした。
「どうにか、な。医者の厄介にはならなくてもよさそうだ」
「それって結構……」
「大丈夫だよ」
湯呑を起こし、畳に零れた茶の後始末も少し考えながら、慧音は心配を断ち切るように言った。
「大丈夫だから、玄関で待っていてくれ。これを拭き取ってから、私も行く。連れていきたいところがあるんだ。そんなに時間は取らせない」
「……まあ、少しだけなら」
急いで布巾を取りに台所へ駆けていく慧音を見ていると、断る事は出来なかった。
霖之助は玄関に向かい、靴を履いて、簡単な掃除を始める慧音へ呼びかける。
「僕を何処に連れていくんだい?」
「寺子屋だ」
「……そうか」
霖之助は不思議な縁を感じて、「そうか」と何度も繰り返していた。
霖之助と慧音の初対面の場所は、とある子供好きの好々爺が開いていた寺子屋だった。
当時の慧音はまだ人間であり、今よりもずっと子供だった。霖之助も背格好は似たようなものであったが、年齢なら一回りほど、当時の慧音よりも年上だった。
しかし、そんな年齢差も気にせず、昔の霖之助は慧音に恋をしていた。
妖怪のハーフである霖之助にも分け隔てなく接する慧音に、寧ろ惚れないほうが不思議だった。
それなのに思いを口にしなかったのは、種族の違いを充分に理解していたからだ。
人間と、人間と妖怪のハーフ。体のつくりも思考も価値観も寿命も、人間同士のそれとは根本的に違っていた。
だから、霖之助は諦めて慧音とは友人として接していた。それで満足していた。あまり仲が良くなりすぎると、いつか必ず互いの認識の擦れ違いで傷付けあうと、当時の霖之助は予感していた。
そのまま、霖之助と慧音は何事も無く、普通の友人として寺子屋を卒業した。男女の友人は何かと周りからちやほやされがちだが、そのような事は一度も無かった。「違いを理解し、その知識は友好の為だけに使いなさい」。それが好々爺の口癖だった。皆に遵守された結果なのだと、霖之助は思った。
卒業後、興味の赴くままに幻想郷を暫く旅していた霖之助は霧雨道具店に住み込みで働き、私生活と仕事が綯い交ぜになった生活をしていた。その頃から、霧雨の一家とは家族ぐるみの付き合いになった。現在の店主とは、まるで兄弟や親友のような間柄だった。
その彼が成長し、店を継ぎ、結婚し、子を儲けるのを、霖之助は守り神にでもなったような気分で見ていた。
ある日、子育てに忙しい店主夫妻に代わり、霖之助は一人で店番をしていた。それ自体は珍しくない事だったが、その日は珍しい客が訪れた。
慧音が別れた時と殆ど同じ姿で店に訪れたのだ。
その時の衝撃を霖之助は今でも忘れられない。
数十年ぶりの再会にも関わらず、霖之助は捲し立てるように質問した。
慧音はそれに圧倒されながら、白沢という神獣と出会い、弟子入りするような形で半獣にしてもらったと答えた。そして、白沢から歴史に関する多くの知識を授けられたが、それ以外はほんの触りだけで、白沢は何処かに去ってしまったとも。
授かった知識を生かすため、慧音は好々爺が亡くなってから閉鎖されていた寺子屋を自分の手で再開させようとしていた。そのため、霧雨道具店に黒板や机等の備品を求めてきたのだと言った。
霖之助は在庫が足りるか奥の倉庫に引っ込み、そこで頭を冷やして――。
「どうだ。懐かしいか」
記憶を辿っていた霖之助の目の前に突如、何十年も過去の光景が現実として広がった。
廊下から教室に続く扉を開けている慧音が、霖之助の傍らで自慢げに微笑んでいる。
「虫に食われたり、黴が生えたりしたものは全部捨てたが、出来る限りは元通りにした。入るといい。机は今の子供達の物だから、あまりべたべたと触らないようにな」
ずんずんと進む慧音に引き摺られるように、霖之助は浮ついた足取りで無人の教室に入る。
懐かしい。その一念だけが脳裏に浮かぶ。窓の外には大きな桜が見えた。自分達で植えた苗木の成長した姿であると、霖之助には分かった。
霖之助は昔の習慣を思い出すように、ゆっくりと歩き出す。いつも使っていた窓際にある机と椅子の隣に立ち、教壇に立つ慧音を見る。座ってもいいかと聞こうとするが、口にする必要はなかった。
「ああ、どうぞ座ってくれ。子供達には黙っておく」
「……ありがとう」
霖之助は椅子に着いた。昔は浮いていた踵が、今は床に付くようになっていた。細かいところで自分も変わったのだと思いながら、霖之助は窓から人間の里を眺める。やはり、その景色も昔とは随分と異なっていた。
不意に、がたがたと煩い物音が霖之助に聞こえてきた。慧音が霖之助の隣の席を動かした音だった。彼女は机と机をくっつけ、霖之助の息が届きそうな近くに椅子を置いて、それに腰かけた。
「どう……、したんだい。慧音?」
急接近にどぎまぎしながら、霖之助は訊ねる。慧音は頬杖を付いて、黒板のほうを見て言った。
「いや、単なる昔の真似事さ。私が教科書を忘れたときはこんな風に見せてくれただろう?」
「そんな事あったかな?」
「一度だけ、あった。逆は十四回あったな」
「……よく覚えているね」
「同じ事をする教え子をたまに見掛けるから、その度に思い出すんだ。そういうのは時代が移り変わろうと何も変わっていかない」
突然、慧音は霖之助のほうへ振り向いた。霖之助は逃れるように、窓の外へと目を背けた。
「霖之助。……お前は、変わるのか?」
それはどういう意味での質問だったのか、霖之助には分からなかった。
しかし、見透かされている事と、変化を恐れられている事なら、察せられた。
「僕も生きているんだ。生きているなら、変化は当然の事だよ」
「そういう高尚な話じゃない。そんなのとは、全然、違う話なんだ」
「だったら、君は一体何を言いたいんだい?」
慧音は、俯いた。服の裾を皺が寄るまで、強く握り込んだ。
「一つだけ、聞きたい事がある。私が寿命を伸ばした理由の、一つでもある」
もう、霖之助に逃げ場は無かった。質問を待つ事しか許されず、彼は生唾を飲み込み、慧音を見つめる。
「――お前、私の事が好きだったのか?」
そして放たれた無邪気な疑問の声に、霖之助は観念するように、額を机に擦り付けた。
気付かれていた。
屈辱とも恥辱とも、はたまた、どちらでもある感情が霖之助に押し寄せていた。
投げやりに、霖之助は答えた。
「ああ、好きだったよ」
「……そうか」
「でも、あえて言わなかった」
「その理由は言わなくてもいい。私にも、それは昔から分かっていた。お前は人間と妖怪のハーフだから、尚更だったのだろうな」
種族が違う事自体に何も問題はない。しかし、それが原因で起こる問題が全く無い訳ではない。
霖之助は自らの両親について殆ど語らない。それがどういう意味なのかは、幻想郷で暮らしている者であれば薄々察せる事だった。
「今は?」
勇敢にも、慧音は質問を重ねた。霖之助はそのままの姿勢で首を横に振った。
「分からない。もう殆ど、冷めている」
「……当たり前だな。私達は会わなさすぎた」
慧音は溜め息を天井へ昇らせる。そして瞑目し、時間が過ぎるのを待った。
霖之助はちらと顔を上げる。
「慧音。君は――」
「霖之助」
「……なんだい?」
「私は、その質問に答えたくない」
「まだ僕は何も言っていないよ」
「それでも、分かるものは分かる」
「……そうだね。考えたら、僕にも分かるから」
慧音は純粋に知識を求めて半獣になったのだろうが、先程の言葉も理由の一つである事には間違いないだろう。
ならば、好かれていたかどうかを単に気にしていただけとは考えにくい。霖之助は必ず、慧音にとって正負のどちらかに大きく偏った存在であり、そして、特別には拒絶されていない今の状況を踏まえれば、どちら側なのかは自ずと分かってくる。
「なんで、僕なんか……」
霖之助が慧音のために何かをした覚えはなかった。
人間と妖怪のハーフという、腫れ物扱いされてもおかしくない霖之助に対し、昔の慧音が平等に接してくれた事はよく覚えている。
それでも、平等は平等。他の者にも同じであり、昔の霖之助は関係性が変わってしまう事を恐れて、何も言わなかった。
ただ、好意に気付かれていたのなら、何かはしていたのかもしれない。具体的な事は覚えていないが、気にかけていた事は確かだったのだから。
もしそれが理由なら、霖之助は申し訳なく思う。
慧音は霖之助のために、若かりし頃の淡い恋のために、人を辞めたのかもしれないのだ。
暫くして、慧音は目を開いた。
「霖之助」
「うん?」
「お前、店を畳むつもりか?」
「まあ……、それは少し考えていた。よく分かったね?」
「ガラクタなんて言うからだ」
「冗談かもしれないだろう?」
「冗談なら、本当の事をこの場で言っている。それに、お前は私の前ではなんだかんだ正直だ」
「違いない」
気持ちが露見してしまうのも当たり前だと、霖之助は笑いながら思った。
慧音は溜め息を吐き直し、今度こそ、霖之助と向き合った。
「どうしてだ? 経営が厳しくなったのか?」
「違うね。それに店を畳む事は本格的には考えてもいない。とりあえず、今までに集めた品を幾つか処分しようかなと思っていただけだ」
「趣味だったんじゃないのか。人生を捧げようと思う程の」
「でも、少し飽きたんだよ。別に自然な考えだろう? 何年も何十年もしていたら、どんなものでもいつかは飽きてくる。生涯を通して趣味と呼べるようなものとは簡単に出会えるものじゃない。それに一度趣味から離れてみるのは悪い事じゃないと僕は思う。そうする事で本当にその趣味が自分にとって必要なのかが分かるのだから」
「それなら、完全に辞めるという事は無いのか?」
「いいや、それは分からないね」
古びた風が、二人の間を吹き抜ける。
霖之助と慧音の意識が擦れ違って生まれたような、隙間風だった。
「思っていた以上に、僕の情熱は冷めやすいみたいだから」
「……そうか。自分の事だ。私が口出しするものでは、なかったな」
慧音は席を立ち、机と椅子を元の場所に戻す。落胆しているように見えたが、顔は霖之助からは見えなかった。
「霖之助。……なあ、霖之助よ」
譫言のように慧音は問い掛ける。
「私達の青春は、いつ終わったのだろうか」
「僕は覚えていないな。それは、君のほうが得意な分野だ」
「もしかして、始まってもいなかったのだろうか」
「どうしたんだい。混乱しているようだけど」
「……ああ、そうだな」
慧音は一つ、深呼吸する。
「なんだか、怖くなったんだ。好きだったかと訊いて、分からないと言われてしまうと。
これはつまり、そういう事かと思ってな。
だから……。こんな事を訊くのは、はしたない事だと思っている。しかし、真面目に答えてくれ」
混乱は、まだしているのだろう。
だが、霖之助は何も言わず、静かに頷いた。
「私は年を取った。頭も固くて面白みがない。そんな私でも、もう一度好きになってもらえないだろうか?」
「……遅いよ、慧音」
小さく呟いてから、霖之助は笑った。
責めるのではなく、からかうように。
「一度冷めた僕が君を大切にする保証は無いのに」
「分かっている」
「なのに、友達ではなく、恋人という意味で、言ったんだ?」
「そうだ。……うん、その通りだ」
言葉を噛み締めるように慧音が頷く。
すると、混乱から徐々に解放されたのか、冷静になった慧音は急に狼狽え始めた。
「その、もしかしてあれか? 霖之助はもう、好きな人が別にいるのか? それなら、いや、それ以外の些細な事でもいいが、今の事は忘れてくれても――」
「参ったなあ。これは参った」
「霖之助?」
一頻り乾いた笑い声を上げた霖之助は、自らの無責任さを自覚し、いずれ傷付ける可能性を考慮していながらも、嘘は言えなかった。
「慧音。僕はまた、君の事が好きになりそうだよ」
新たに吹いた風が、消え去りかけていた霖之助の恋心を、再び燃え上がらせようとしていた。
月の綺麗な夜だった。
結局、霖之助は店を畳まなかった。
飽きていたと思っていたのに、意外とそうでもなかったらしい。
昔の事を店先で述懐しながら、今では店を畳む事を考えていたのは一時の気の迷いではなかったのかとまで思うようになっていた。
「お茶が入ったぞ」
「ん。どうも」
店の奥から現れた慧音から湯呑を貰い、何気なく飲んで、霖之助は吐息した。
熱い茶だった。しかし、もう気にならなかった。
落ち着いた仕草で慧音が霖之助の隣に並び、彼の横顔を眺める。
暫くの間、他愛の無い世間話が慧音の口から続けられる。
何かを切り出す前座だと分かったからか、その内容は霖之助の記憶に留まらない。
茫洋とした受け答えが三度ほど繰り返されてから、慧音は問い掛けた。
「なあ、霖之助」
首を傾げる事で霖之助は静聴の意思を示す。
「私はお前にとって、人生を捧げられる程の女になれたのだろうか?」
これほど簡単な質問も無い、と霖之助は思った。
何十年も離れていたというのに、結局、一緒に居る事を選んだのだから。
「言わなくても分かるだろう?」
愛の告白を期待する慧音に対し、霖之助は平静を装いながら顔を背ける。
この質問、実は既に幾度となく繰り返されている。
たまに答えてくれるが、今日は違ったらしい。
何度目かも忘れた霖之助の臆病な姿に、慧音は夜に隠すように、こっそりと笑った。




