ふたごころ(三十と一夜の短篇第80回)
画家のフィンセント・ファン・ゴッホは1890年7月29日、弟のテオドロスに見守られて世を去った。画商で、兄や印象派の画家たちを支え続けたテオは兄の死に衝撃を受けて見る間に憔悴した。翌年の1月25日、ユトレヒトの精神病院でテオは亡くなった。
それだけ兄弟の絆は強かったと思わせるが、テオは梅毒の末期症状で中枢神経まで冒され、いわゆる脳梅毒の状態だったと乾いた事実が添えられている。また兄のフィンセントの数々の極端な言動も梅毒感染の影響を唱える説がある。
ヨーロッパで梅毒の感染爆発・流行が初めて記録されたのは1490年代で、永正9年(1512年)に京都の医師竹田秀慶の『月海録』に書かれた症状が日本での最初の梅毒の記録とされている。戦国時代に日本に入ってきたのは、「鉄砲」、「煙草」、「梅毒」と言われているが、梅毒は鉄砲伝来の1543年よりもはるかに早い時期に、そして恐ろしく速く伝播した。日本でもヨーロッパでも、当時の記録や墓所などの調査で、多くの人々が梅毒に感染していた痕跡が発見される。徳川家康の二男結城秀康は梅毒が原因で死亡し、加藤清正は徳川側から毒を盛られたのではなく、梅毒が死因であったとも言われている。慶応3年(1867年)、その後明治期に娼妓の検査で、7、8割の娼婦が梅毒に感染していた報告されている。身分の上下関わりなく、閨の営みから伝染する病は猖獗を極めた。
けさのの暮らす村にお触れが出た。戦の為にお殿様が遠くまで行くので、長期間家を空けられる、村の二、三男の若い男を槍持ちとして差し出せという。けさのと仲の好い末吉は名前の通り、家族が多い家の息子なので条件に合う。兄たちから追いやられるように触れの侍の前に突き出された。けさのは驚いて末吉に縋り付きそうになった。
「戦に行っちまうのかい!」
「ああ、こうなっちまったら仕方ねえよ。長く村を離れてもいいようにだなんて、次の田植えまでに帰ってこれるか判らねえが、行ってくる」
「帰ってくるのを待ってるよ」
けさのは涙を流した。末吉と同じような子沢山の家の男や変わり者と厄介払いされた者たちが集められ、旅立った。
お殿様の戦は遠い場所、どうやら都のような人の行き来の激しい地に赴くらしい。収穫を終えた田畑や近場の川原っぷちで合戦をしないでくれるのは有難いが、男手が土地から離れるので、物騒になりはしないかと心細い。お殿様と入れ替わりに、守護の殿様の所で見習いをしていたお殿様の息子が戻ってきて、領地を預かることになった。若様は何分経験が浅くて、領民の信頼が薄い。人手が減ったのを考慮せず普請を言い付けられたら、どんな真面目な村民でもお殿様と比べてしまう。
しおしおと過していると、またお触れの侍が村に来た。
「お屋敷の普請が終わり、若殿様がお移りになる。お屋敷の女中の手が足りぬ。手伝いの女子を出せ」
また労役で人を出さねばならないのかと肝入りは頭を振り振り、礼儀作法や手仕事を教えてくれるし、飯も食わせてくれるからと、けさのを含めた村の娘たちに声を掛け、お屋敷に向かわせた。けさのたちは女中頭にお屋敷の間取りや簡単な挨拶の仕方を教えられて、見様見真似の立ち居振る舞いでお屋敷の中で働いた。
若殿様は代々お仕えしている守護の殿様に連れられて、都や堺といったけさのたちが全く知らない所で暮らしたことがあるとかで、自分が跡を継ぐ予定のこの土地を田舎だとやたらと悪く言う。
「屋敷を改築してマシになった。
生まれた場所とはいえ、なんと鄙びているのか。襖や板戸のしつらえ一つ古臭くてかなわん」
若殿様の側には、都かどこか、煌びやかな街から連れ帰った側室がいる。同じ女とは思えぬほど、けさのたち、土地の娘たちとは容子が違う。力仕事や畑仕事をしていない手は白くほっそりとして、日焼けして節の目立つ、洗っても爪に泥が残る手など恥ずかしくて見せられない。屋外での長時間の労働もなく、側室は好きなだけ時間を掛けて髪や肌の手入れをして、歌や踊りで体を動かす。お姫様のように、とはいかないのだろうが、けさのたちには雲の上に近い人間だ。
「一緒に音曲を奏でてくれる者がいないと張り合いがない」
側室は舞扇を投げ出した。若殿様が留守をしていれば側室のやることがない。自分の値打ちを下げぬように努力するにも、周りで世話する者たちが異世界の生き物を眺めているような阿呆面で詰まらないのだ。
「ねえ、あなたの名前は源平の頃の文覚上人が出家する前に懸想した袈裟御前にちなんでいるのかしら?」
と、問われても、けさのは何のことやらさっぱりで、餌を待っている池の鯉みたいな顔をしないでよ、と側室の機嫌を損ねてしまった。
けさのが物を知らないと側室がお喋りしたらしく、池の鯉はどいつだと若殿様が女中部屋までわざわざ見に来た。
「面白い顔をしているではないか。口を開けてみよ」
と、けさのをからかった。
それから、けさのは若殿様の閨に呼ばれた。
「お相手する方がいらっしゃるのに、何故あたしをお召しになるのですか?」
「瑠璃葉の足の付け根に腫物ができて、長引いておる。しばし養生させるから、そなたを選んだ」
その程度の扱いかと、けさのは我が身の軽さに落胆した。しかし、若殿様に逆らって生きていけない。惚れた男がいるからご勘弁をと言ったとしても、村娘一人を誰も気遣わない。役目が終わるまでの我慢、もしかしたら沢山お手当てをもらって村に帰れるかも知れないと、けさのは黙って受け入れた。
若殿様に気に入られたか、けさのは部屋を与えられ、衣服や化粧道具を下賜された。側室の瑠璃葉がやって来て、何も知らないんだから、馬子にも衣装と悪態を吐きつつ、着こなしや使い方を教えてくれた。
「もう少ししっかりしてて若殿様の話し相手が務まるのなら、わたしは故郷か都に帰れるのに」
意外な言葉にけさのは瑠璃葉に尋ねずにいられなかった。
「若殿様を好いておられるのではないのですかな?」
側室は笑いながら手を振った。
「真逆、わたしは是非にと請われて、大枚を約束されたからこんな田舎までついてきたの。若殿様だって遊び女に誠なしと判っている。
わたしは若殿様の無聊を慰める為にいるのよ。年を取らないうちにここから出たいわ。
ああ、また都に行きたい。ここじゃあ瘡を患ったって、それを診てくれる薬師だっていやしない」
瑠璃葉はけさのに踊りや閨での振る舞い方も教えてくれ、けさのは自然、つれづれの話し相手をするようになった。
「酒席で踊って、客の機嫌を取ってお勤めが終わればこれほど有難いことはないけれど、そのまま床の相手もしなけりゃいけない。息は臭いわ、顔は脂っこいわ、いつ体を洗ったんだか垢じみているわって奴でも、こちらは業平顔のいい男が目の前にいるみたいに喜んで抱きついてみせるのよ。
判るでしょ? 遊び女に誠なしなんて当たり前よ。こちらは二心を持たなきゃやっていけない。そうしなければ心が壊れてしまう」
瑠璃葉はひょいとけさのの顔を覗き込む。
「あんたもそうなんじゃないの?」
「はあ?」
「真逆あの若様に惚れてるの?」
お屋敷のどこで誰が聞き耳を立ててるか知れないのに、本心を、それも誠がないと口に出す瑠璃葉に言ってよいものか、それくらい学のないけさのにも判断できる。
「まあいいさ。あんたも二心で若様にお仕えしようと、情夫を引っ張り込むような真似をしでかさなきゃ咎められやしないわよ」
瑠璃葉はそれでいてしょんぼりとすることもある。
「遊び女だって生まれた時は生娘だったし、慈しんでくれる親だって、わたしを好きだと言ってくれる男だっていたんだよ。戦で焼け出されちまって、どうにもならなかったのさ。あの人が側にいてくれたらさ……」
けさのが末吉を慕うように、瑠璃葉にも想う男性がいたようだ。瑠璃葉はそれ以上は口にしなかったし、下手な同情や慰めなど瑠璃葉は欲していないだろうと、けさのは何も言わなかった。
一月近く経って、けさのの肌にぶつぶつとしこりが出た。若殿様は、自分も瑠璃葉もしこりができたことがあるが、すぐに治ると気楽な言葉を掛けられた。さいわいに痛みはないので、効くのかどうか判らないが、油を塗ったり、薬草をすり込んだりして過ごした。
瑠璃葉の腫物は一向によくならないし、けさのの肌が見苦しいと、若殿様はほかの娘を閨に呼んだ。飽きたら飽きたで暇をくれたらいいのにと思わないではない。病を治すまで面倒を見てくれるのだろうと、けさのは良い方に考えることにした。
そのうちに若殿様の口元に大きな出来物ができた。出来物は治らず、搔き壊したように拡がっていく。見ていて痛そうだ。新しく閨の相手をしていた娘はそれを嫌がって逃げようとした。若殿様は娘を捕まえて、折檻し、お屋敷から放り出した。
「儂をなんだと思っている」
若殿様の怒りの形相に、けさのと瑠璃葉は震え上がった。元々気紛れな性分の若殿様が、顔の出来物が気になる所為か、余計気難しくなったようだ。些細なことで怒鳴り散らし、暴力を振るった。近臣の者が若殿様の機嫌を取ってくれと、瑠璃葉に頼んでくる。
「やってられないわ」
瑠璃葉はこっそりとけさのに囁く。
「瘡が顔に出たから気になるのね」
瑠璃葉の足の付け根にあるという腫物も瘡だろうと、けさのは胸が塞がれる思いがする。
夏草の時期に殿様がこの地に戻ってきた。末吉は無事に帰ってこられただろうか。けさのは村に確かめに行きたかったが、好きにお屋敷を出られない。同郷の者に頼んで末吉の消息を教えてもらった。末吉は無事に村に戻った。けさのはそれを聞き、ひそかに涙した。
お屋敷に入った殿様が若殿様を呼び付け、長い時間何やら話こんでいた。その後、瑠璃葉とけさのは若殿様に呼び出された。並んで座る女二人を前に、若殿様は勿体を付けて口を開いた。
「親父殿が、儂と守護殿の息女との婚儀を決めた。ゆえに儂の身の周りを綺麗にしておけと命じられた。そなたたちに暇を出す。
瑠璃葉は約束した通りの大判と、今までやった衣装を持たせて都に送らせる。
けさのもこれまでの衣装と、砂金を渡す。村へ帰れ」
瑠璃葉はしおらしくお世話になりましたと告げるも、喜色を隠さなかった。けさのは表情を動かさないよう努めて、お辞儀をした。
けさのは一財産を抱えて村に戻り、お宝を親兄弟と分け合った。あとは末吉だ。
「末吉さんが戦から戻ってきた。あたしもお屋敷からやっと下がれた。
あたしのことはみんなから聞いて知っているだろうけど、末吉さんはあたしと一緒になる気はあるかい?」
「おいらで良ければ」
事情を聞かされた双方の親に否やはない。こうして祝い事に向けて村で準備が始まった。
末吉もけさのも、領主のご一家に振り回されて苦労したが、好き合った同士で一緒になれる、これからがより良くなるようにと、二人は喜びで一杯だ。
ところが、けさのの体調がにわかに悪くなった。発疹がぱらぱらと出て、足の付け根に腫物が出た。もしやこれは瑠璃葉と同じ病だろうか。治るのだろうか、けさのは不安で押しつぶされそうになった。不安を隠しておけない、すべてを末吉に伝えた。
末吉はこの世の終わりを見た顔つきになった。
「多分これは都で南蛮瘡とか、唐瘡とか言われている病だ。閨を共にしてうつる病だって聞く。
きっと瑠璃葉という女が若殿様にうつして、若殿様があんたにうつしたんだ。瘡ができたらもう悪くなるばっかりだと、都で聞いた」
「じゃあ、もうあんたと一緒になれないね」
末吉は首を振った。
「閨を共にするばっかりが人と人の絆じゃねえ。どうかおいらにあんたの世話をさせてくれ」
「そいじゃあんたが気の毒すぎる」
「いいや、おいらをただ飯喰らいと扱う兄貴たちよりけさのがずっと優しい。あんたがいなけりゃ、あんたが帰りを待っててくれると信じてなけりゃ、おいらは戦場でとっくに死んでたよ。今生きているのはあんたのお陰なんだ。おいらにとって女はけさのだけだ。世話させてくれ」
「有難う、有難う、末吉さん」
けさのの病の進み方は早かった。腫物は拡がらなかったが、体が弱り、疲れやすくなった。すぐに寝たり起きたりの暮らしになり、末吉が面倒を見た。
嫁に来たはずの守護のお姫様が若殿様の顔を見て、気味悪がった。更に若殿様の顔の瘡は花柳病に罹っている証と知って、怒って実家に戻ってしまった。殿様はお仕えする守護に平謝りし、若殿様は身の置き所のない状態だという。
病を拡げぬようにと、末吉とけさのは夫婦の契を結ばなかった。しかし、若殿様が放り出した娘が同じ病をうつされていた。またお殿様の戦に付いて行った者たちで、瘡の病を持ち帰った者がいた。瘡持ち、治らぬ病を持ち込んだと嫌われた。
「あたしが言うのもおかしなものだけど、どうして人は清らかにしていられないんだろうねえ」
もはや目も見えなくなったけさのは末吉に言った。
「判らねえ。
病になったって構わねえと女を買って何ともなかった奴もいれば、浮ついた気持ちじゃないからうつらねえと言って瘡をうつされた奴もいる。
白状すると、戦に駆り出されている間、おいらの股ぐらは萎んで役立たずだった。怖がりと仲間から笑われもしたが、夜はけさのを思い出して一人でいた。結局それがよかった。好いた人の顔を思い浮かべて満足できれば、みんなどんなによかったか」
「あたしは若殿様に呼ばれた時は、これが末吉さんだったらといっつも思ってた。末吉さんとだったら病にもならなかったのに、本当に心残りだよ」
「ああ、本当に心残りだ」
二人は笑い、泣いた。
参考文献
『テオ もうひとりのゴッホ』 マリー゠アンジェリーク・オザンヌ&フレデリック・ド・ジョード著 伊勢英子&伊勢京子訳 平凡社
『病が語る日本史』 酒井シヅ 講談社学術文庫
『骨が語る日本人 古病理学が語る歴史』 鈴木隆雄 講談社学術文庫