第九十五話 発 意 (はつい)
巨体から放たれる突進は絶大な破壊力を有していたが、繰り出した当人の身体に及ぼす影響も決して小さくはなかった。
繰り返し頭部を打ち付けたことによる衝撃からか、イニワは蹈鞴を踏むようにして膝を突いてしまう。
「イニワ……!!」
ウジャラックに肩を貸して異種から引き離したのち、少年は名を呼んで彼の元に駆け寄った。
「——だ、大丈夫!?」
今にも崩れ落ちそうな巨体に寄り添うようにして問うと、イニワは額を伝う血を手の甲で拭いつつ、小さくうなずいてみせる。
横たわったまま身をのたうたせる異種を見据えた彼は、感心とも辟易ともつかない調子で呟いた。
「お互いさまだが……しぶとい奴だ」
次いで身を起こしたウジャラックを横目に見やり、言葉短く尋ねる。
「避難の進み具合はどうなっている」
「あと数分もあれば」
「ならば、意地でも持たせんとな」
自らに言い聞かせるように呟くと、イニワは正面を見据えたまま少年に問い掛ける。
「アシュヴァルの奴も来ているのか」
「そうだよ、アシュヴァルも一緒だよ!! もう少し——もう少しで来てくれる——!!」
「そうか」
鉱山へと続く勾配を、懸命にひた走る彪人たちの姿を思い浮かべながら答える。
少年の答えに満足そうにうなずいてみせるイニワだったが、再びぐらりと身をかしがせる。
目まいから来るものなのか、あるいは身体の各部に負った傷に起因するものかはわからないが、とてもではないが異種に立ち向かえる状態には思えない。
よろめきながら立ち上がるイニワを支えようとする少年だったが、彼は押しとどめるようにその肩に触れた。
「おまえは不思議だ。不意に現れたかと思えば、おれたちの間を引っかき回し、混ぜっ返し、いがみ合っていた者たちの心をほだす。おれの故郷には助け合うことと支え合うことを忘れた世界を、大いなる精霊が滅ぼしたという伝説が残っていてな。過ちを繰り返せば人に待っているのも同じ終末、それを見届けるのも一興と思っていたが——存外捨てたものでもないのかもしれない」
この状況にあって場違いなほどの落ち着きを見せるイニワは、眇めるように目を細め、いつになく穏やかな口調で続ける。
「もしも精霊や守り神が人の間に姿を現すのであれば、それはきっと——おまえのようないたずら者なのかもしれないな」
手荒ではあるが決してがさつではない、その人となりを表すような手つきでもって、イニワは少年の肩を突き放す。
「うわっ……!」
「ここはおれの持ち場だ。誰にも邪魔はさせない。おまえにもウジャラックにもだ。世話を掛けるが後のことは任せる。皆にもよろしく伝えてくれ」
足元をぐらつかせながら起き上がった彼は、仕事の指示でも出すかのように型通りに告げ、異種を正面に捉えて一歩を踏み出した。
横顔から見て取れる表情は、最強の戦士であるラジャンに立ち向かおうとしたアシュヴァルが見せたそれに——自ら死地に赴かんとする戦士の表情によく似ている。
行っては駄目だと叫ぼうとするが、思うように声が出ない。
かすれた音が漏れるだけで、意味のある言葉になってくれない。
異種という脅威を前にした恐怖が、人が死を覚悟する瞬間を目の当たりにした衝撃が、そんな状況にあって何もできない己に対する失望が、少年の喉を完全に閉ざしてしまっていた。
今まさに身を起こさんとする異種に向かって歩み出すイニワ、その一歩一歩がどういうわけか異様にゆっくりと感じられる。
遅々として過ぎゆかない時の流れの中で、少年は懸命に思考を巡らせる。
この状況を打開するすべを持ち合わせてはいないか。
アシュヴァルとシェサナンドが到着するまでの時間を持ちこたえる手段はないか。
傷ついて逃げ惑う抗夫たちを襲う可能性がある以上、イニワとウジャラックを連れて逃げるという選択など取れようもない。
それならば手にした剣をもって戦うのはどうかと考え、即座に案を取り下げる。
たとえラジャンの剣をもってしても、非力な腕と拙い技では、堅牢な表皮に覆われた異種に手傷を負わせることすらままならないだろう。
坑夫としての仕事だけでなく、戦いの技を学んでおけばよかったと悔いても、今となっては遅かった。
戦士二人が到着するまでの、わずかな時間すら作ることができない。
不毛の荒野で目を覚まして以降の半年間がわずか数分にも値しないことに対し、激しい無力感に陥りそうになった瞬間、ひとつの情景が不意に脳裏をよぎる。
それはつい先ほどのこと、ベシュクノの脚を握って空を飛んだ際の、はるか上方から見下ろす鉱山の景色だった。
上空から鉱山の遠景を望んだかと思えば、次に頭をかすめるのは異種に挑み掛かるラジャンたちの猛々しい後ろ姿だ。
かと思いきや、いつの間にか辺りの風景はバグワントに負われて進んだ森の中へと移り変わる。
断続的に脳裏に浮かんでは消えていく様々な場面が、自身の体験してきた過去の出来事であることに少年は気付く。
わずか数か月分ではあったが、順を逆さに追って記憶をさかのぼっているのだ。
一方的にアシュヴァルに別れを告げて里を去り、里長ラジャンとの面会を果たし、彪人たちの暮らす里にたどり着く。
アシュヴァルと二人鉱山を離れ、ローカの身を買い受けるために蹄人の商人の元を訪れ、金をためるためにしゃにむに働いた。
体験した半年の間の記憶が、次から次へと目まぐるしく変転していく。
少女と出会ってその身の上を知り、自らの生きる意味を探り、働くことの大変さを身をもって知った。
慣れない手つきで十字鍬を振るい、心落ち着くすみかを、身を包む衣服を、命の源である食事を与えられ、一人の彪人に拾われる。
そして、丸裸の状態で鉱山を見上げていたところで、頭上から聞き覚えのある声が響いた。
『危ねえぞ! そんなとこで何やってんだ!!』
転がり落ちる岩が眼前まで迫った瞬間、突如として我に返る。
遡行する記憶の中から抜け出した少年は、目をそらすことなく迫り来る異種を正視していた。
「——イニワっ!!」
一歩踏み出そうとする彼を、絞り出した声で呼び止める。
「自分に考えがあるんだ!! ——聞いて!!」
異種が目前まで迫っている以上、悠長に構えてなどいられない。
これから取ろうとしている策を、可能な限り短く端的に伝える。
策といっても、数言で説明できる程度の極めて単純な内容だ。
イニワとウジャラックはまさかといった反応を示したが、少年は無理やり押し通すように声に力を込めた。
「お願い、信じてほしい!!」
言い切るが早いか、二人の返答を待たずして大地を蹴った少年は、目前まで迫った異種の脇を擦り抜けるようにして走り出した。
「——こっちだ! こっちに来い!!」
ある程度の距離を取ったところで立ち止まると、後方を振り返りながら手にした剣を頭上高く掲げる。
仄赤い刀身を持ったラジャンの剣をこれ見よがしに高々と突き上げながら、異種の注意を引くように呼び掛けた。
「——ほら、こっちだよ!! こっちこっち!!」
思惑通り異種は身をひねり、イニワとウジャラック、そして坑道の出入り口に後ろを向ける。
「そうだ! こっちだよ!!」
声を大にして挑発でもするかのように叫びを上げると、少年は再び異種に背を向けて走り出した。
走りながら幾度も振り返り、異種が追ってきていることを確認する。
辺りに転がる岩を飛び越え、時に足を取られながらも、坑道の出入り口から遠ざかるようにして、能う限りの速さで駆け続けた。