第九十四話 緒 戦 (しょせん)
一人で異種を食い止めるイニワを探して走る中で行き合うのは、傷を負って倒れ込んだ抗夫たちや、負傷者を抱えて逃げる者たちだ。
「どこ行くんだよ!」「あっちは危ねえぞ! 」「戻れ!」
「あっちにベシュクノがいるんだ! けがしてる!! みんな、お願い!!」
口々に発せられる警告の声を聞こえない振りでやり過ごし、足を止めることなく後方を振り返る。
今し方たどってきた道のりを指し示しながら声を上げれば、抗夫たちは一斉に顔を見合わせ、そちらに向かって駆け出した。
注意と忠告とを幾度となく背に受けつつ、坑道の出入り口へと急ぐ。
目的の場所まで残りわずかというところで見て取ったのは、横たわる一匹の異種の骸だ。
アシュヴァルの口にしたもう一人の用心棒、その人物が打ち倒したと異種だろうか。
近くで見る異種の体躯は、彪人の里へ向かう道中で遭遇した既知の個体よりもはるかに巨大だった。
「早く行かないと……!」
骸と化した異種の脇を通り過ぎ、半年の間に何度も出入りした坑道近くへとたどり着く。
そこで少年が目にしたのは、道中で目にした骸と同じか、それ以上の大きさを有する一匹の異種と、その前方に立ちふさがる宰領イニワの姿だった。
黒褐色の被毛を血に染めたイニワは、片膝を落としながらも一歩も引くことなく真正面から異種と正対していた。
その光景を目の当たりにした少年は、気付くと足を速めていた。
「うわあああああ——!!」
声にならない叫びを上げ、今まさにイニワに襲い掛からんとする異種に向かって駆ける。
置き捨てにされていた十字鍬を行きがけに拾い上げると、振りかぶったそれを異種の側面に向かって力任せにたたき付ける。
何百、何千、何万回と繰り返してきた動作だったが、初めて打つ異種の体表は岩盤の何倍も硬い。
非力な腕で振るう十字鍬では表皮を貫くことはかなわず、はじかれた十字鍬のほうが手を離れて宙を舞った。
反動で無様に尻もちをつく少年を目にし、イニワはがくぜんとした様子で呟いていた。
「な、なぜ——戻ってきた……!?」
「助けにきたんだ、みんなを!!」
座り込んだまま答える少年を見据えるイニワの顔に、今まで見たことのない驚愕の色が浮かぶ。
「おまえ——」
短く呟いたかと思うと、イニワは気を取り直したように異種に向き直る。
彼の視線を追って振り向いた少年の目に飛び込んできたのは、大きく身体をひねった異種が、四本の肢を使って迫り寄るところだった。
「こ、こっちに来る……」
なぜかはわからないが、少年はその攻撃の対象がイニワから自身へと移ったことを漠然と察する。
口腔のみを有した頭部を突き出して迫る異種を前にし、地面に腰を突いた姿勢のままずるずると後ずさった。
「腰の物は飾りか!! 抜け!!」
「そ、そっか……!!」
後方へ退きつつ身を起こし、腰帯に差した剣の柄に手を添える。
自らを奮い立たせるように力いっぱい柄を握ると、いつか目にした本来の持ち主の姿を思い浮かべて刃を引き抜いた。
剣士と呼ぶには程遠いぶざまな手つきではあったが、鞘走るように抜け出た剣が仄赤い刀身をさらす。
抜剣の勢いのまま振り上げた刀身は図らずも異種の頭部をかすめ、軽い手応えとともに硬質な外皮を斬り裂いていた。
気を抜けば脱力しそうになる四肢を叱咤し、両手で剣の柄を固く握り締める。
「や、やあっ——!!」
見よう見まねで振りかぶった剣を、異種の頭部目掛けて今一度振り下ろす。
刃はひと太刀目よりもさらに深く頭部をえぐり、異種は甲高い咆哮を上げて激しく身をよじらせた。
「▇▆▄▂▆▇▆▇█▄▆█▂▁▂▆▇」
「や、やった……!」
思わず感嘆の声を漏らすが、直ちにそれが誤りであったことを思い知る。
身を覆う外皮を薄皮一枚ほどそいだとて、その活動を止めることなどできないのだ。
斬り裂かれた外皮の裂け目から体液をまき散らしながら、異種は威嚇でもするかのように上半身を高く持ち上げた。
「あ——」
放心していたことで反応が遅れ、気付けば今まさにのし掛からんとする異種の半身が眼前に迫っていた。
とっさのことに身動きのできない少年は、頭上を仰ぎ見た姿勢で固まってしまう。
即座に逃げなければ押しつぶされるだけだと頭でわかっていても、迫り来る異種をただ見上げ続けることしかできなかった。
「っ……!!」
「▇▆▇█▄▆█▂▇█▄▆▇」
直後のこと、口腔から金切るような音を放つとともに、突如として異種は大きく身をのけ反らせる。
気力を振り絞った少年がどうにかその場を飛びのいた瞬間、数秒前まで自身の身があった場所に向かって異種の前肢が振り下ろされるところを目に留める。
紙一重のところで難を逃れ、後ずさりしつつ全身を見やる中で、少年は異種に何が起きたのかを理解していた。
異種の背の上には、両手で握った円匙を突き立てるウジャラックの姿があった。
手にした円匙の刃先を外皮の隙間から体内深く押し込もうと力を込めるが、異種もされるがままではない。
「▆▇▅▇█▄▂▆▇█」
異物を排除しようとしているのだろう、張り付いたウジャラックごと鉱山の岩壁に背面をたたき付ける。
岩壁に身体を打ち付けられて怯んだ様子を見せるが、それでもウジャラックは円匙の柄を握る手を離さなかった。
だが、このまま繰り返し返し打ち付けられでもすれば、いかに頑丈な鱗に身を包んだウジャラックとて耐えられる道理はない。
「ウジャラック!! 逃げて!!」
寡黙な鱗人は依然として円匙から手を離すことなく、刃先を異種の背へと打ち込み続けている。
今一度岩壁にたたき付けようとしているのだろう、異種が勢いを付けでもするかのように身を屈めた瞬間、辺りに硬いもの同士のぶつかり合う音が響いた。
大地を揺るがす轟音が響き渡ると同時に、異種の巨体が大きくかしぐ。
「イ、イニワ……」
目にしたのは、異種に対して渾身の体当たりを浴びせるイニワの姿だった。
一度目の突進を放った彼は、続けて二度目を放つべく距離を取る。
両手を岩の大地に突き、後ろ足で力強く踏み切ると、異種の側面に対して湾曲した二本の角を頂く頭部を思い切りたたき込む。
力の塊となったイニワの突進は、辺りに地鳴りのような音を響かせ、異種は大きくよろけて横倒しになる。
同時にウジャラックも放り出され、突き立てた円匙を異種の背に残して大地へと転がった。