第九十三話 飛 翔 (ひしょう)
「——と……と、飛んでるよ……っ!!」
「落ち着くんだ! 風が乱れる!!」
恐怖と興奮に声を上擦らせる少年に対し、戒めるような口調でベシュクノが言う。
「ご、ご……ごめん!!」
答えて唇を引き結んだ少年は、固く口を閉ざして地上を見下ろした。
眼下に広がるのは岩と土に覆われた斜面、前方には目指す鉱山が間近まで迫っている。
「飛ばす!! 絶対に手を離すんじゃないぞ!!」
返事代わりに、左右の脚を一層強く握り締める。
ベシュクノが両翼を激しく羽ばたかせると、宣言通りにますます速度が増していった。
◆
坑道付近にとどまる異種を討つため、アシュヴァルとシェサナンドは鉱山へと向かった。
深い傷を負ったベシュクノだが、彼もまた二人に先んじる形で鉱山へ向かう旨を表明する。
ベシュクノから「どうする」と意思を問われ、わずかな逡巡を経て少年が出したのは、「自分も行きたい」というアシュヴァルの意に反する答えだった。
満足そうな笑みを浮かべてうなずいたベシュクノは、少年に対して両手を高く掲げて待つように告げる。
傷ついた身体を押しながらも広げた両翼に風を受けて舞い上がった彼は、上空を大きく旋回したのち、翼を傾けて急降下する。
両の趾でもって少年の手首をつかみ、一段と力強く翼を打つ。
そうしてベシュクノは、少年の身体を空高く持ち上げたのだった。
◆
懸命に飛ぶベシュクノだが、その飛行は安定しているとは言い難かった。
均衡を欠いての不意の降下を繰り返すたび、強く翼を羽ばたかせることで辛うじて持ち直す。
ただでさえ深手を負っている上に、小柄ながらも人一人という重荷を抱えているのだから、それも当然だろう。
鉱山で使われる道具類を趾に握って飛行する嘴人たちの姿は見慣れていたが、まさか己が荷物側になるなど、そのときは夢にも思っていなかった。
「ベシュクノ!! だ、大丈夫……!?」
「心配ない……!! お客さまは優雅に景色でも楽しんでいてくれ!!」
頭上を仰いで声を掛ける少年だったが、返ってくるのは努めて気取った答えだ。
そうはいっても、落ち着いて景色を見ている余裕などあろうはずもない。
かといって途中で下ろしてくれなどと言えるわけもない。
身を包む浮遊感と文字通り地に足の着かない不安感、下腹部辺りに覚える掻痒感など、さまざまな感覚が一挙に押し寄せてくる。
しかしながら、頬をなでる激しい風の肌触り、身体を通り抜けていく猛烈な風音、風に乗って運ばれてくる草木や土のにおいは、にわかには信じられないような状況にあって、自身が確かに飛んでいるという事実を実感させてくれた。
徒歩では三十分ほどかかる鉱山への道のりも、空を飛んでいけばものの数分だった。
地上を走るアシュヴァルとシェサナンドの二人をあっという間に抜き去り、鉱山に向かって飛んでいく。
走りながら頭上を見上げて声高に叫ぶアシュヴァルを見下ろし、片目をつぶって小さく謝罪の言葉を口にする。
「ごめん……! でも——約束は破ってないよね」
少なくともベシュクノのそばにはいる。
少年は弁解がましく呟くと、今一度懸命に地上を走る二人を見下ろした。
物申すように手を振り上げるアシュヴァルが、何を言おうとしているのかは手に取るようにわかった。
ベシュクノのそばにいろという言い付けはあくまで建前で、真意はできるだけ異種から遠ざけ、戦いに巻き込まないようにするためなのだろう。
確かに異種の跋扈する鉱山と麓の町において、ラジャンと彪人の戦士たちの近く以上に安全な場所はない。
傷ついたベシュクノと共にあの場にとどまることが、彼の意をくんだ自身の取るべき選択なのだということも十分理解している。
アシュヴァルはシェサナンドと二人で、鉱山に残った異種との決着をつけるつもりだ。
もちろん彼らの戦士としての力を信じていないわけではない。
だが、二つの宝を盗まれた責により、そしてその盗人の逃亡を手助けするため、二人ともが深く傷ついている。
とてもではないが万全の状態とはいえないだろう。
力を持たない身の上で戦場に赴いて何ができるのかはわからないが、それでも一緒に戦いたいと願う感情は決してうそではない。
たとえ短くとも、生の全てである半年間という期間に生まれた意地と、この数分で抱いた小さな疑念に対する罪滅ぼしの気持ちからなのかもしれない。
寸刻前のこと、闘争心をむき出しにして戦う彪人たちを前にし、極めて強い恐怖心を抱いた。
確かに衝撃的な光景ではあったが、それが生きてきた半年間を覆すほどのものであったのかと改めて自問する。
鉱山やその麓の町で働く人々が、種の垣根を越えて協力し合うところを見てきた。
掲げてみせた到底不可能と笑われるような目標を応援してくれ、思いを黄金色の形に変えて託してくれた。
加えて異種の襲撃と言う非常事態の中にあっても、人々は互いの身を案じる気持ちを忘れていない。
アシュヴァルをはじめとする彪人たちも同じだ。
厳めしい外見に似合わぬ真っすぐな心根、仲間を思う気持ちが、決して上辺だけのものではないことは身をもって学んでいる。
恐るべき里長ラジャンですら、助けを求める言葉を正面から受け止めてくれたのだ。
「すまないが限界だ……!! なるべく高度は落とすが——後は頼む、うまいこと受け身を取ってくれよ! !」
滑空の姿勢を取って徐々に高度を下げながら、ベシュクノは叫び交じりに声を上げる。
残された力を振り絞るかのように、傾けた左右の翼で制動をかける。
急速に下降していく中、少年の足が地表に接したことを確認すると、ベシュクノはさらに高く声を張り上げた。
「離すぞ——!!」
「う、うんっ!!」
答えると同時に、少年はベシュクノの脚を握る手を離した。
両手で頭を抱え、身体を丸め、可能な限り着地の勢いを殺すように努める。
舌を噛まないために口を固く引き結んで衝撃に耐え、荒れた岩肌を石ころのように転がり続けた。
「う——」
身体のあちこちに擦り傷や切り傷を負いはしたものの、大きなけがを負わずに済んでいるのは、ベシュクノが限度いっぱいまで速度と高度を落としてくれていたおかげに違いない。
苦痛の声を漏らしながら立ち上がったところで、少年は前方に倒れ伏した嘴人の姿を認めていた。
「ベシュクノ!!」
己の身よりも投下を優先させたためだろう、当人は頭から地面に突っ込んでしまっていた。
辺りには舞い散った羽根が散乱しており、片方の翼はあらぬ方向に折れ曲がっている。
二度の墜落を経たその身体はあまりに痛々しい。
「ベシュクノ! ベシュクノ——!!」
「……お、俺のことはいい。だから早く……イニワのところへ行ってやってくれ……」
顔をのぞき込んで名を呼ぶが、彼はうつぶせのまま開口一番に言う。
「う、うん! わかった……!!」
わずかの間を置いて答え、勢いよく立ち上がる。
たとえ負傷していたとしても、ベシュクノ一人であれば今より早く到着することもできただろうし、問題なく着地することもできていたに違いない。
にもかかわらず、彼は人一人を抱えて飛ぶことを選んでくれた。
戦力として期待されていたとは到底思えず、悔やむ自身への気遣いか、あるいはもっと別の事情があるのか。
だが、たとえどんな理由からであれ、今の自分がこの場所に立っているということだけは疑いようのない事実だ。
「そうだ……それでいい」
苦悶交じりに漏らすベシュクノに背を向け、少年は坑道方面に向かって走り出した。