第九十二話 戦 士 (せんし)
「今はイニワが一人で戦っている。坑夫たち全員の避難が済むまで食い止めると……」
「イ、イニワが!?」
「あの莫迦野郎……!!」
ベシュクノの口から語られる言葉に、少年は驚きの声を上げ、アシュヴァルはいら立たしげに吐き捨てるとともに拳で掌を打った。
イニワは鉱山で働く坑夫たちを取りまとめる宰領であり、誰よりも強い責任感の持ち主だ。
異種の襲撃という危機的状況において、彼が自ら壁となって皆を逃すという役目を担うことは想像に難くない。
「俺もまだ戦えると言ったんだが、助けを呼んでこいと言い張って譲らなかった……!! 呼んでくる、呼んでくるとも……! ……だがそのときには——」
翼を握り締めて呟くベシュクノの表情には、深い悔悟と自責の色が浮かぶ。
「それはそうとして……君たち、どうして戻ってきた? それに彼らは——」
ふと顔を上げて少年とアシュヴァルを見やると、次いでベシュクノはシェサナンドに視線を向ける。
続けて往来の向こうで異種を相手取って戦う彪人たちを眺め、不可解そうな面持ちで呟いた。
「俺たちは仕事の依頼を受けて異種を倒しにきただけだ」
「依頼だって……? いつの間に……それにいったい誰が——」
「こいつだよ、こいつ」
あきれ気味に口を開くシェサナンドに、ベシュクノは半ばぼうぜんと尋ね返す。
少年の頭頂部を人さし指でつつきながらシェサナンドが答えると、ベシュクノはとても信じられないといった口ぶりで言った。
「き、君が……?」
「うん。彪人たちに頼んだんだ。いろいろ——いろんなことがあったけど、アシュヴァルのおかげでこうして戻って来られた。みんなから預かったお金、彪人たちに来てもらうために使っちゃったけど——許してくれるかな……」
「許すも何も、まったく君という奴は……」
嘴を開け放ち、放心したようにベシュクノは呟く。
小さく左右に首を振った彼は、アシュヴァルとシェサナンド、そして少年の顔を真剣な表情で見上げた。
「また君に——山を出た君に救われることになるなんて思いも寄らなかったよ。おこがましいとわかってはいるが、恥を忍んで俺からも頼む……!! イニワと皆と——俺たちの山を守ってくれ……!!」
常日頃から絶やすことのなかった余裕ある振る舞いをかなぐり捨て、ベシュクノは感情をあらわにする。
「安心しろ。彪人は約束を守る。頼まれたからには絶対に期待を裏切らねえ」
アシュヴァルはベシュクノを見下ろして答えると、往来の向こうで激しい戦いを繰り広げるラジャンたちに視線を向けた。
「そ、そうだ! ラジャンにも伝えないと……!! 山の方にも異種がいるって——」
思い立ってラジャンの元に走り出そうとする少年だったが、突然背後から腕をつかまれる。
無理やり足を止められたことに戸惑いを覚えつつ振り返った少年は、自身の行動を制したのがアシュヴァルと知り、訴えるような目でその顔を見上げた。
「ア、アシュヴァル……?」
「そいつはやめとけ」
「ど、どうして!?」
アシュヴァルは表情を変えずに言い放つ。
救いを求めるかのように問う少年だったが、疑問に答えたのはアシュヴァル当人ではなく、もう一人の彪人だった。
「聞けよ。里の彪人にはさ、それだけは絶対にしちゃならないって言われてる約束事が幾つかあるんだ。里に暮らす彪人なら赤ん坊でも知ってるやつだ。里長の食事をのぞくなっていうのが一つ。それでもう一つは——」
恐れとも畏れとも取れる複雑な表情を浮かべ、シェサナンドは往来の向こうを見据えて言った。
「——里長の戦いに水を差すな」
シェサナンドに倣い、少年もまた戦場へと姿を変えた往来に視線を移す。
そこにはすでに一匹目の異種を骸に変え、二匹目に挑み掛かる里長ラジャンの姿があった。
狂喜とも愉悦とも知れぬ色を双眸に宿しているのが、遠く離れた場所からでも見て取れる。
解き放たれた凶暴性の赴くままに戦いを続ける他の彪人たちとも一風異なる表情は、まるで真新しい玩具を与えられてはしゃいでいる子供のようにも見えた。
激しい動悸とともに湧き上がってくる生唾を飲み込み、少年は振り返ってアシュヴァルとシェサナンドを順に見上げる。
「で、でも……! 早くしないとイニワが——!!」
「慌てるんじゃねえ、大丈夫だ」
憂慮に震える少年の両肩に手を添えたアシュヴァルが、噛んで含めるように言う。
「戦士ならよ、ここにもいるじゃねえか」
親指で自らの胸辺りに触れて言うと、次いで彼は返した指でシェサナンドを示し、皮肉げな笑みを投げ掛けた。
「だろ?」
「の、望むところだ……!! やってやるよ!! やるに決まってる!!」
動揺しつつも胸を張って答えるシェサナンドの反応を満足げに受け止め、アシュヴァルはベシュクノを見下ろして口を開いた。
「聞いての通りだ。俺たちが行くぜ」
「……恩に着る」
恐れ入るように答えたのち、ベシュクノは左右の翼を支えに身を起こそうと試みる。
だが、立ち上がろうとする彼を、突き出した腕でもって制したのはアシュヴァルだった。
「ベシュクノ、お前はここにいろ」
「し、しかし……!!」
「彪人を——俺たちの力を信じろ」
言い返そうとするベシュクノをひと言で黙らせ、次いでアシュヴァルは少年に視線を向けた。
「お前もベシュクノと一緒にいるんだ。——いいな」
ひと言ではあったが、決して反論を許さない迫力があった。
自分も一緒に——喉元まで出かかった言葉をのみ込み、か細い声で了承の意を伝えた。
「うん……わかった」
「少し見ねえ間にずいぶん聞き分けがよくなったじゃねえか。必ずイニワ連れて帰るからよ、お前も安心して待ってろ」
少年の内心の葛藤を見て取ったのか、アシュヴァルは口元をほころばせて言う。
荒々しい手つきで少年の頭をひとなでした彼は、シェサナンドを伴って鉱山に向かって走り出した。
ぼうぜんと立ち尽くしたまま、鉱山へと駆けていく二人の背中を見送る。
一緒に戦いたいと、そう言えたらどれほどよかっただろう。
だが、戦う力を持たない者が同行すれば、逆にアシュヴァルとシェサナンドの足を引っ張ってしまうことは火を見るより明らかだ。
鉱山とその麓に広がる町は故郷だ。
この地で目覚め、この地で生きるすべを学んだ。
この地とそこに生きる人々、アシュヴァルや抗夫たち、麓の町の皆に育ててもらったといっても過言ではない。
危機を目の前にして何もできない自身に、いら立たしさを感じずにはいられない。
ふがいなさに肩を落とす中、少年がふと目に留めたのは、負傷を押して起き上がろうとするベシュクノの姿だった。
「ベ、ベシュクノ!! 駄目だよ、休んでなきゃ——!!」
「嘴人って奴らは、どうにも素直じゃない奴が多いらしくてね。追い掛けられると逃げたくなるし、出ていくなと言われれば無性に出しゃばりたくもなる。ここにいろって言われると、逆にどこかに飛んでいきたくなってしまう——そんな難儀な性分なんだ」
気遣いの言葉を受け流し、ベシュクノは無理を押して立ち上がる。
自嘲めかしたせりふを口にしながら、瞳の奥には軽口とは裏腹の強い意志のようなものが見え隠れしている。
「で、でも……じっとしてないと——」
「ひねくれ者は俺だけかい? 君も心の底から納得してるって顔には見えないが」
「じ、自分が……?」
嘴の端をつり上げてベシュクノは続ける。
抱いている本心に触れられたような感覚に、胸の内に動揺が広がっていくのがわかった。
「今すぐ山に戻る。アシュヴァルたちより一秒でも速くイニワのところへ戻って——それで伝えてやりたいんだ。助けが来てくれる、町は大丈夫だって。それが今の俺にできる精いっぱいだ。出ていった君たちに任せ切りじゃ、示しが付かないからな」
鉱山を見上げて言ったのち、振り返ったベシュクノは少年の顔を真正面から見据えて尋ねた。
「——俺は行く。君はどうする?」