第九十話 軍 神 (いくさのかみ)
往来へと進み出た里長ラジャンは、道の中ほどでおもむろに足を止める。
そして豪奢な刺繍の施された丈長の上着の襟元を荒々しい手つきでつかむと、自らの身体から剥ぎ取りでもするかのように乱暴に脱ぎ捨てた。
「うわっ——」
舞い上がったラジャンの上着が、後方から彪人たちの背を見詰めていた少年の頭部を包み込む。
視界をふさがれ、慌ててそれを取り払おうと四苦八苦する中、辺りにラジャンのものであろう地を裂くような咆哮が響き渡った。
彼に続けとばかりに鋭い雄たけびを上げるのはバグワントとヌダールたち三人、そして名も知らぬ彪人の戦士たちだろう。
「おい、大丈夫か」
「……あ、ありがとう」
しきりにもがく中、上着を取り払ってくれたのはアシュヴァルだ。
礼を言って顔を見上げようとしたところで、彼の視線が自身ではなく往来の先に向けられていることに気付く。。
手にしたラジャンの上着を遅れて追い付いたシェサナンドに無理やり押し付けたアシュヴァルは、喉を大きく動かして生唾を飲み下した。
その目線の先を追った少年は、信じられない光景を目の当たりにする。
「あ——」
少年の視線もまた、上着を脱ぎ捨てたラジャンの背に吸い寄せられる。
ラジャンの背中には、数え切れないほどの無数の傷痕が走っていた。
大半が生傷ではなく古傷の類いであったが、刃物で斬り裂かれたような深く長い刀傷、爪のようなもので引っかかれた幾筋もの裂傷、鋭利な道具か何かで刺し貫かれたと思われる刺傷など、ありとあらゆる種類の傷が刻まれている。
猛者ぞろいの彪人たちの中にあって最強の名をほしいままにするにこれほどの傷を負わせる者がいるとしたら、それはいったいどんな相手なのだろう。
ある日突然里へと現れたというラジャン、彼がどのような過去を歩んできたのかなど、少年には及びも付かない。
だが、その半生が過酷極まるものであったことは、身体に刻まれた無数の傷痕が如実に物語っていた。
異種を前にしてあくまで泰然たる態度を崩さない里長ラジャンとは対照的に、数瞬前までとは明らかに異なる様相を示すのは、彼を囲むように立つ彪人たちだった。
誰もが眼を爛々と血走らせ、口の端から垂れる唾液を拭おうともしない。
喉を鳴らす低いうめき声を漏らしながら、皆が皆、荒い呼吸に腹と肩を上下させる。
常に大様な構えを崩さなかったバグワントも、いつでも愛嬌のある笑みをたたえたヌダールも、戦士たちの誰も彼もが相貌と印象を劇的に一変させ、目前に迫る異種をにらみ付けていた。
今にも異種に向かって飛び掛からんとする彪人たちを後方から眺めるうち、彼らがそろって丸腰であることに気付く。
飛び込みで仕事を依頼をしたため、戦いの準備をする暇がなかったのだろう。
そこに思い至ると、少年は居ても立っても居られず、地を蹴って走り出していた。
「——お、おい! どこ行くんだよっ!!」
アシュヴァルの制止を背に受けながらも、急ぎラジャンの元に駆け寄る。
異種に向かって眈々とした視線を注ぐ彼に対し、腰帯から抜いた剣を震える手で差し出した。
「ラジャン! やっぱり——こ、これ! か、返すよ……!!」
武具は有用に扱うことのできる者の手にこそ握られるべきで、自身が持っていてもなんの意味もなさない。
そんな考えの元に剣を差し出す少年だったが、その思いを知ってか知らずか、ラジャンは剣を受け取ろうとはしなかった。
「刃ならば間に合っている」
差し出された剣に一瞥すら与えずに彼は言う。
「で、でも……」
どこから見ても徒手であり、身体のどこかに武具を忍ばせているようには見えない。
少年の声に焦りと不安の色を感じ取ったのか、ラジャンは口の端をゆがめて不敵に笑う。
おもむろに左右の腕を持ち上げた彼は、胸の前で交差した両腕を十字を切るように振り下ろした。
動作とともに、五指の先端から湾曲した爪が伸びる。
小ぶりな短刀ほどはあろうかという爪は、彼の言う通りまさしく刃だった。
剣を捧げ持つ少年がぼうぜんと見詰める中、ラジャンは往来に姿を現した異種に向かって駆け出した。
彪人たちの先陣を切り、腰を低く落として音もなく疾駆する。
無言のままに繰り出された拳の初撃が、群れの先頭を進む異種の側面を捉える。
続けて頭部に渾身の力を込めた二撃目を見舞ったラジャンは、体表を打ち抜いた拳を引き戻すことはせず、頭部を覆う外皮の隙間に爪を突き立てる。
そして異種の頭部を抱え込んだかと思うと、巨体がかしぐほどの勢いで地面へと打ち付けた。
他の彪人たちも、ラジャンに続けとばかりに低い咆哮を上げる。
バグワント、ヌダール、エッシュ、ヴァルン、残りの戦士たちも、獲物と定めた異種に向かって挑み掛かる。
凶暴性をあらわにし、圧倒的な暴力で異種を蹂躙する彪人たちの姿に抱いたのは、頼もしさや安心感とは別の感情だった。
「二面性——もう一つの顔……」
全身を駆け巡る戦慄に震える中、ふと口を突いて出たのはそんな言葉だった。
ラジャンの屋敷の謁見の間、壁面に描かれる女神の絵が頭の中に鮮明に浮かび上がる。
人も神も、誰しもが二面性を抱えているのならば、眼前で猛威を振るう彼らの凶暴性も暴力性も、彪人という種の持つもう一つの側面ということなのだろうか。
「ああ、そうだ。これが彪人の戦いだ」
思わず漏れた呟きから意を察したのだろう、呟くように言ってアシュヴァルが肩に触れる。
同行の許しを得てはいるが、盗人に加担したアシュヴァルとみすみす逃亡を許したシェサナンドの二人は戦うことを禁じられている。
噛み締めるような口ぶりから伝わってくるのは、戦いに参加できないことへの痛烈な無念さだ。
そしてそれ以上に、自らが彪人であることへの矜持のようなものが強くにじみ出ているような気がした。
強烈な畏怖の色を瞳に映しながら闘いを凝望するアシュヴァルと同様に、シェサナンドも手の中の衣服を握り締め、食い入るようにラジャンを見詰めていた。
「彪人の——戦い……」
繰り返しいてラジャンを見据える少年の傍らでは、アシュヴァルが緊張と高揚に声を上ずらせて言う。
「ああ。里長ラジャンの二つ名、誰が呼んだか『女神の花婿』つってな。ああなったらもう止まんねえ。全部終わるまで——どっちかが力尽きるまで戦い続けるんだ。相手が人でも——人じゃなくても関係ねえ……!」
大地に引き倒した異種の外皮の隙間に手を突き入れると、ラジャンはその外皮や四肢を次々と引き裂き、引き剥がし、引きちぎっていく。
激しい抵抗を受けても、噴出する体液にまみれても、決して攻撃の手を緩めようとはしない。
苛烈極まりない光景を前にして、かつてないほどの戦慄を覚えると同時に、少年は自身と彪人たちを分かつ決定的な差異を痛感する。
知りたいと願い、言葉を交わし、共に過ごせばわかり合えるものと信じていた。
人々の間に交じって働くうち、たとえ姿形が異なろうとも心を通じ合わせることは不可能ではないと思い始めていた。
いつかアシュヴァルが、自身を指して語った言葉を思い出す。
わかり合えると信じ切っているのは何も知らないからだと、そうアシュヴァルは言っていた。
目の前で行われる圧倒的な力の行使を前にして、そのときの言葉の持つ意味が腑に落ちた気がする。
眼前の光景は、どうあがいても乗り越えることのできない壁が、埋めることのできない溝が、確実に存在することを知らしめるには十分過ぎるほどだった。
言葉を交わしてわかり合いたいと願う自身の思いなど、結局は都合のいい夢物語や青くさい理想論に過ぎないのだろうか。
自らの思いに懐疑の念を抱きそうになったそのとき、傍らに立つシェサナンドが指先で頭上を示してみせる。
「……おい。もう一人飛んでくるぞ」
思考を中断されて反射的に頭上を見上げる少年の目に映ったのは、飛来する一人の嘴人の姿だった。