第八話 暗 窖 (あんこう)
アシュヴァルがイニワと呼んだ男は、彼を優に超える巨躯の持ち主だった。
身体は全体的に筋肉質で、中でも高く盛り上がった肩部が特徴的だ。
肩から背中にかけてたくましく隆起しているため首回りは低く沈んで見え、大きめの頭部の左右からは内方に向かって湾曲した短めの角が伸びる。
全身が黒褐色の縮毛で覆われ、上半身を包む毛は特に長く厚く発達していた。
身に着けるのはアシュヴァル同様に腰布のみだが、彼のそれとは異なり、さまざまな色合いの糸を使った幾何学模様の刺繍が施されている。
アシュヴァルの呼び掛けを受けて足を止めた男は、十字鍬を肩に担いだままその場にとどまって二人を迎えた。
「いいとこで会ったぜ! なあ、こいつに一つ仕事をやってくれよ!!」
「今から始業だと見てわからないか。それをいきなりなんのつもりだ。藪から棒にも程があるぞ」
「そりゃ間に合ったってことじゃねえか。なあ、頼むぜ。——こいつだ、こいつ!」
アシュヴァルは少年の肩をつかみ、その身体を巨躯の獣人の前へと押し出しながら言う。
イニワと呼ばれた獣人は見るからに大儀そうにため息をつくが、アシュヴァルはその快不快などまったく意に介さない様子だった。
黒褐色の縮毛の獣人——イニワは担いだ十字鍬をその場に下ろすと、立ち止まって成り行きをうかがっていた者たちに向かって「先に始めていてくれ」と告げる。
彼らの後ろ姿を見送ったイニワは、再びアシュヴァルに向き直った。
「アシュヴァル。おまえが他人の世話を焼くなど、どういう風の吹き回しだ」
「ん? ああ、気まぐれだよ。そいつが今の気分ってだけだ。細かいこと気にすんなって。で、どうなんだよ? 仕事、なんかあんだろ? 頼むよイニワ」
けげんそうな問い掛けに、アシュヴァルはあくまで恬淡として答える。
そんな彼に折れたのか、イニワは諦めたように嘆息して少年を見下ろした。
「見慣れない顔だな。ここは初めてか」
「うん、初めて……だと思う」
確信をもって言い切ることはできないが、おそらくそうであろうという推測のもとに答える。
自信のない口ぶりから何かを感じ取ったのだろう、イニワはいぶかしげな視線を少年に向けたが、すぐに表情を切り替えて次の質問を投げ掛けた。
「名はなんという」
「あー!! 名前は……あれだ!! なんだったかな——」
「おまえには聞いていない」
アシュヴァルは慌てた様子で会話に割り込むが、勢いよく言い立てる彼をイニワはその屈強な腕をもって押しのけた。
「名乗れない理由があるのか」
イニワは改めて少年を見下ろして問う。
少年はいかにももどかしそうなまなざしを向けるアシュヴァルに向かって小さな首肯を送ると、次いでイニワの顔を見上げて答えを返した。
「名前はわからないんだ。名前だけじゃなくて、それ以外も」
その返答が意外だったのか、イニワの顔にかすかに動揺の色が浮かぶ。
「ま、なんだ。訳ありってやつだよ! お前ならわかるだろ?」
イニワは横から口を挟むアシュヴァルを無言で受け流すと、しばしの黙考ののちに再度口を開いた。
「いいだろう。おまえがどこの誰であろうとも一向に構わない。名前などなくとも身体一つあれば仕事はできる。この山では素性も経歴も関係ない。肝要なのは何をしてきたかではなく何ができるかだ。それで——おまえは何ができるのだ?」
「何が……」
答えを返そうと口を開くが、その先が出てこない。
無理を言って鉱山に連れてきてもらいはしたものの、それが勢いに任せた場当たり的な行動であったことは否めないからだ。
掌に視線を落としてしばし考え込んだたのち、左右に頭を振って思考を切り替える。
「……わからないけど、なんでもやるよ。なんでもやらせてほしい!!」
開いた掌を拳に握り直しながら、イニワを見上げて言った。
「いいだろう。付いてこい」
「う、うん……!」
イニワは十字鍬を担ぎ直し、坑道の入口を指し示す。
少年は歩き出した彼の後に続き、アシュヴァルもまた当然のように道を同じくする。
だが不意に振り返ったイニワは、彼に向かって断じるように言った。
「アシュヴァル。おまえにはおまえの仕事があるだろう」
「……あ!? で、でもよ! 俺はそいつの——」
「いいから戻れ」
未練を残したように言うアシュヴァルを、イニワはたやすく切って捨てる。
「その、アシュヴァル! 大丈夫だから……!」
「ん、あ……おう」
不安げなまなざしで自身を見下ろす彼に対し、力強くうなずきを返す。
続けて精いっぱいの強がりを込めた笑みを送ると、少年はイニワにいざなわれるようにして坑道へと足を踏み入れた。