第八十七話 横 紙 (よこがみ)
再び路傍の石に腰を下ろした里長ラジャンに対し、鉱山に異種の群れが迫っていることを伝える。
身ぶり手ぶりを交えて必死に状況を説明する少年だったが、全てを聞き終えたラジャンが見せたのは、まさに想定していた通りの反応だった。
「小僧、何故貴様にそんなことが分かるというのだ。この乃公を謀ろうとでもいうのか」
「う、うそじゃないんだ……!! だまそうなんてつもりも一切なくて——でも理由は言えない……!」
ラジャンの顔から満足げな笑みは消え、刃のように鋭い眼光が少年を射抜いていた。
だが、今ここでローカの持つ力のことを打ち明けるなどもっての外だ。
不老不死の妙薬として見られている少女に不可思議な力まで備わっていると知られたならば、彼女を利用しようと多くの人々が群がる可能性も多分にある。
そうなった彼女に待っているのは、おそらく自由とは程遠い日々だろう。
異種の接近を知るに至った経緯も説明せず、ただ危険が近づいていることを知っているから助けてほしい。
不確実で裏付けのない願いを受け入れてもらえるわけなどないことは初めから承知していたが、他に取るべき手段を知らない。
鉱山を襲う異種の群れから皆を救うには、彪人たちと里長ラジャンの力を借りるより他に選択肢はないのだ。
一人鉱山に向かうと決意した少年がローカから見せてもらったのは、身を盾にしてラジャンの前に立ちはだかるアシュヴァルの姿だった。
「ならば仮にだ。その話が真実だとして、貴様は乃公に何を捧げる。まさかとは思うが、手ぶらで仕事の依頼というわけではあるまい。何かを手に入れるためには何かを差し出さねばならない。——貴様もよく知っている世の理だ」
それもまた想定していた問いだった。
彪人たちが金銭と引き換えに異種討伐を請け負う傭兵業を営んでいることは、以前にアシュヴァルから聞き及んでいる。
「これで——」
つり橋のたもとを立つ際、肩掛け袋から衣嚢に移してあった巾着袋を取り出す。
手にした復路の紐を解き、見下ろすラジャンの足元に向かって押し出した。
今の自身が謝礼として差し出せるもの、支払える対価はそれしかなかった。
少女を買い取るために身を粉にして働いて得た報酬、そこに鉱山の皆の思いを加えた巾着袋の中身が、差し出し得る——持ち得る全てだ。
「金貨が三十枚と——」
「六十だ」
あおむけの姿勢から身を起こしつつ、アシュヴァルは自らの言葉をもって少年の提示した金額を上書きする。
「全部で六十、だろ?」
「アシュヴァル……うん——」
腫れ上がった顔にうっすらと笑みを作ってみせるか彼に静かな点頭で応じ、続けてラジャンを見上げた少年は毅然とした態度で告げた。
「金貨六十二枚と、銀貨八枚に銅貨が九枚……!! それ以上は一枚も出ない!! それで——君たちに異種退治の仕事を依頼する!!」
少年の求めに、ラジャンは口の端をつり上げた意味ありげな笑みを浮かべる。
「——いいだろう。交渉は成立だ」
「あ、ありがとう……! じゃ、じゃあ今からすぐに——」
「話は終わってはいない」
喜びをあらわに立ち上がろうとするところを制し、ラジャンは釘を刺すように言った。
「六十二と八と九、異種狩りの報酬として確かに貰い受ける。だが小僧よ、貴様には大きな貸しがあることを忘れたわけではあるまいな」
「貸し……」
「そうだ。乃公の下からそれと——」
言ってラジャンは少年の腰のものを顎先で指し示す。
「——貴様によく似たあの娘を、一言の断りもなく持ち去った咎を如何にして償う」
「そ……それは——」
ラジャンからすれば、自身は宝物を持って逃げた盗人でしかない。
いくら仕事に対する報酬を支払おうと、犯した罪が消えるわけではない。
鞘ごと抜いた剣をラジャンの足元へ押し出し、少年はひれ伏すようにして地面に額を擦り付ける。
「ほ、本当に悪かったと思ってるんだ!! 何も言わずに持ち出したこと、どうか許してほしい——!!」
懸命に謝罪の言葉を口にする。
「——悪いとは思うけど、でも絶対にローカは渡せない! 何があっても返せないんだ!! 勝手なのはわかってる……わかってるけど——」
言ったそばから自らの発言を翻し、重ねて懇願を続ける。
「それでも鉱山のみんなを助けてほしい!! アシュヴァルのことも許してほしい!! 剣は返す——でもローカは返せない!!」
「どこまでも呆れた小僧よ。斯様な我執が通ると本気で思っているのなら、貴様は稀代の愚か者だ。では小僧よ、あの娘の代わりに貴様が乃公のものになるとでもいうのか……?」
どれほど身勝手なことを言っているのか、道理に外れたことを言っているのかは十二分に承知していた。
のそりと腰を上げ、顔をのぞき込むようにして言うラジャンの顔を正面から決然と見返した少年は、答えの代わりとばかりに無言で左腕を突き出した。
続けて袖をまくり上げ、被毛の生えていない前腕をラジャンの顔前にさらす。
「今の自分にはこれ以上出せるものがないんだ……!! だから——もし君が望むなら、腕一本でも脚一本でも好きにしてもらって構わない!!」
「乃公に食われる覚悟があるということか」
「そうだ!! 腕でも脚でも、他の部分でも——君が欲しいって言うのなら君のものだ! でも、命だけは渡せない! 自分の命は自分のもので、ローカの命もローカだけのものなんだ!! 何を失っても——心と命だけはなくせない!! 自分はこれからもずっと生きて……生きてローカを守る——!!」
胸中に満ちる思いの丈を言葉に代え、見下ろすラジャンに向かってぶつける。
見上げる少年の顔と突き出された腕を見比べるように眺めると、ラジャンはしばし逡巡するようなそぶりを見せた。
ややあっておもむろに周囲を見渡した彼は、その場に集まった彪人たちに向かって声を大にして告げた。
「聞け、者共よ——!! これより南の方、鉱山へと向かう!! 異種狩りだ!! 存分に武を振るえ——!!」
ラジャンの宣言に応え、周囲の彪人たちからも「おお!!」と雄たけびが上がる。
戦にはやる戦士たちの声が、重なり合うようにして山中にこだまする。
「ラジャン……」
「一時の酔狂のようなものだ。乃公の気が変わらないことを祈るがいい」
すがるような視線で見上げれば、ラジャンは不敵な笑みをもって応じる。
後ろを向けて去っていく背を、少年は慌てて呼び止めた。
「あ……!! その、これ——」
「今暫く貴様に預けておく。それも——もう飽きた」
両手で握った剣をおずおずと差し出す少年に対し、里長ラジャンは背中を向けたままいかにも興味なさそうに言い捨てた。