第八十六話 挺 身 (ていしん) Ⅲ
「とっとと決めさせてもらうぜ!!」
戦いが長引けば、消耗の度合いの激しい自らに勝機がないと判断したのだろう、アシュヴァルが一気に勝負を決めるつもりであることは、争いごとに縁のない少年の目にも明らかだった。
だが、ラジャンは一気に距離を詰める彼を見据えて微動だにせず、両の手で襟元をつかまれてなお、抵抗する気配さえ見せなかった。
「これでも食らいやがれ——!!」
勢いに任せ、引き込むように投げ技を繰り出そうとするアシュヴァルだったが、どうしたことかラジャンの襟元を握り締めた状態で、全身が硬直したように固まってしまう。
顔に浮かぶ苦悶と焦慮の表情から見て取れるのは、動こうとしないのではなく、動かせてもらえないのではないかということだ。
地中深くまで根を張った大樹を相手に投げ技を仕掛けようとしている。
動きを封じられたアシュヴァルの姿は、少年の目にそんなふうに映っていた。
微動だにしなかったラジャンが不意に動きを見せる。
襟元をつかむ手首をおもむろに握り、片手で易々とひねり上げる。
「おわっ……!!」
直後、アシュヴァルの身体は大きく円転しながら宙に跳ね上がっていた。
そのまま背中から地面にたたき付けられた彼は、一瞬の間に自らの身に何が起きたのかを理解できていないのか、しばしあおむけの体勢で横たわっていた。
「こんなとこでよ……! 寝てなんていられねえんだっ——!! 」
力技で身体を跳ね上げたアシュヴァルは、ラジャンに組み付こうと再び手を伸ばす。
しかし、ラジャンは二度目の攻めを許さず、素早い踏み込みとともにアシュヴァルの腹部に掌底の一撃を打ち込んだ。
「ぐっ……」
続けざまに放たれた膝蹴りが、腹を抑えて屈み込むアシュヴァルの顎先を捉える。
次いでその首根をつかむと、ラジャンはアシュヴァルの顔面を押し込むようにして大地に打ち付けた。
「——ん、……ぐ——!!」
事の発端は他でもない自身だ。
なんとしてでも止めなければならない。
一刻も早く二人の戦いを終わらせなければ、話を聞いてもらう以前にアシュヴァルの命すら危うい状況だ。
激しく身もだえをしてあらがい続ける少年だったが、屈強なバグワントの腕から抜け出すことはできなかった。
「足りんな」
ラジャンがうつぶせのアシュヴァルを見下ろして言い捨てる。
続けて両足を折って腰を落とした彼は、頭皮ごと毛束をつかんでアシュヴァルの頭を持ち上げた。
「誰だ? 不遜にも乃公を倒すなどと嘯いていたのは——どこの誰だ?」
冷笑を浮かべて顔をのぞき込むラジャンに、アシュヴァルは消え入りそうな声で答える。
「……俺だよ。俺が……あんたを倒すって……言ってんだよ」
「無理だ」
言うが早いか、握った毛束を手放して身を起こしたラジャンは、うつぶせのアシュヴァルの腹部に足先を滑り込ませ、蹴り上げるようにして身体を裏返す。
あおむけの状態で横たわったアシュヴァルの傍らまで歩み寄ったラジャンは、その顔を見下ろしながら再び問いを発した。
「それは何時だ、何処でだ? 貴様が乃公を倒すまで、乃公はどれだけ待てばいい?」
「……今——ここでだよ。すぐにぶっ倒してやるから——少しだけ待ってやがれって言ってんだろ」
「無理だな」
半ば朦朧とした状態で答えるアシュヴァルに対して短く断じ、ラジャンは振り上げた足で腹部を思い切り踏み付ける。
「……がっ——! ぐ……」
「何故だ? 何故そこまでしてこの乃公に盾突こうとする。アシュヴァルよ、貴様はあの小僧に何を見たというのだ」
喉の奥から低いうめきを漏らすアシュヴァルに構うことなく、ラジャンは腹部を踏みにじりながら次の問いを投げ掛けた。
「別に……俺が見ようとした訳じゃねえよ。見せて——もらったんだ。だから——これは俺が……勝手にやってるだけだ……!!」
答えてアシュヴァルは、重ねて腹部を踏み付けんと振り上げられたラジャンの足を固く握り締める。
かたくなに抵抗の意志を示すアシュヴァルを見下ろすラジャンの顔には、どこか愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「まだ抗う力が残っていたとはな。いいだろう」
口元に嗜虐的な笑みを刻んだラジャンは足首をつかむ手を振り払い、その場に腰を落とす。
横たわるアシュヴァルの喉元の被毛を強引につかみ上げた彼は、右手を後方に引き絞り、繰り出した拳でその顔面を勢いよく殴り付けた。
そのまま二度三度と立て続けに殴打され、アシュヴァルの口や鼻からおびただしい量の鮮血が噴き出る。
ラジャンは一切表情を動かすことなく、一方的にアシュヴァルを殴り続けた。
「——!! ——っ!!」
凄惨極まりない状況を眼前にして、少年はバグワントの腕の中で声にならない声を上げ続ける。
このままでは本当にアシュヴァルが死んでしまう。
自分と出会ってしまったがために命を失うようなことがあれば、出会わなかったほうが彼にとってどれほどよかったことだろう。
見つけてもらい、全てを与えてもらった。
にもかかわらず何も贈ることができず、あまつさえこのような状況に追い込んでしまったことに、深い悔悟の念を抱かずにはいられない。
ラジャンが一段と大きく右手を振り上げる様を、無力感とともに見据える。
「……っ!!」
だが次の瞬間、巨岩のように微動だにしなかったバグワントの腕が不意に緩んだ気がした。
「……アシュヴァルっ!!」
バグワントの腕を擦り抜け、一目散にアシュヴァルの元に駆け寄る。
鮮血にまみれた身体に覆いかぶさるように倒れ込み、振り上げられたラジャンの拳を刮目して見据える。
盾となって打たれる覚悟を決める少年だったが、ラジャンの拳は中空に静止したまま一向に動く気配を見せなかった。
振り上げていた拳とアシュヴァルの喉元を握る手を緩め、ラジャンは一歩後方へと退く。
「アシュヴァル!! アシュヴァル……っ!!」
手と膝を地に突き、顔と顔が触れんばかりの距離で名を呼ぶ。
「うう」と小さなうめき声を漏らしたのち、アシュヴァルは無理やり唇の端を持ち上げた。
「……そんなにでけえ声で呼ばなくても聞こえてるよ」
「アシュヴァル、よかった——」
安堵に胸をなで下ろしたのもつかの間、頭上から響く威圧的な声が身をすくませる。
「小僧よ。貴様、何故今更戻ってきた。そのまま逃げ去っていればよかったものを、貴様の言う話とは一体何だというのだ」
「た、頼みがあって戻ってきたんだ! 話を……聞いてほしくて——!!」
奥歯を食いしばって恐怖をこらえ、あらん限りの勇気を奮い立たせてラジャンの視線を見据え返す。
少年の口から放たれた言葉を受け、ラジャンの顔が一瞬硬直する。
彼だけではない。
バグワントをはじめとした周囲の彪人たちの間にも、にわかにざわつきが広がり始めていた。
「お前、何言ってんだよ……」
あおむけに倒れ伏したままのアシュヴァルも、顔だけを少年に向けて信じられないといった様子で呟く。
どうにも噛み合わない不穏な空気が辺りに漂い始める中、それを打ち払ったのは誰でもない里長ラジャンの笑い声だった。
「……くくく——」
喉の奥から押し出されるような笑いが、次第に音量を増していく。
「——ははは、わははははは……!!」
居合せた一同の視線を集めたラジャンは、項を反らし、肩を大きく揺すって、辺りに響き渡るほどの大声で豪快に笑った。
ひとしきり笑った彼は、さも愉快そうな表情をたたえて少年を見下ろした。
「これほど笑ったのはいつ以来か。小僧よ、貴様はどれだけ乃公を楽しませてくれるのだ。剣と娘を差し出し、跪いて許しを請いでもするかと思えば、よもや頼み事とはな……! 豈図らんや、盗人の落人が恥知らずにも舞い戻ったと思えば、素知らぬ顔でこの乃公に頼み事か——!! くくく、ははははは……!!」
掌でこめかみを握り込むようにして込み上げる笑いを押し殺したのち、ラジャンは仕切り直しとばかりに言い放った。
「よかろう!! 小僧よ、貴様の恐れ知らずと鉄面皮に免じて話を聞いてやる。乃公の気の変わらぬうちに話せ!!」
「い、いいの……? あ——あ、ありがとう……!!」
いまだ震えの止まらない身体を起こし、口ごもりつつもまずは感謝を伝える。
目をそらすことなくラジャンを見据え、少年は深く息を吸って口を開いた。