第八十四話 挺 身 (ていしん) Ⅰ
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力の限りひた走りに走り、ついに少年は目指す場所にたどり着く。
舞い戻ったのは山間に位置する三差路だ。
さまよい着いたのちに数か月を過ごした鉱山の町、数日前に少女と二人で飛び出した彪人の里、そして自由市場に至るつり橋へと続く道、そこは三つに枝分かれした道の分岐点だった。
山道の中央にあるのは、数人の彪人たちが輪になって並ぶ風変わりな光景だ。
いつか見た彪人の里での稽古風景とよく似ていたが、様相は大きく異なっている。
折り重なるようにして地に倒れ伏すのが、ヌダールたち三人であろうことは身に着けた腰布の色から見て取れる。
腕を組んで屹立するバグワント、兄の傍らで不愉快そうな表情を浮かべるシェサナンド、そして路傍の岩に腰掛けて輪の中央を見据えるラジャン。
彼らと数人の彪人たちの取り囲む輪の中にあったのは、荒い呼吸に激しく肩を上下させるアシュヴァルだった。
身体のあちらこちらから流れ出た血が、白と黄の被毛に赤色をにじませている。
両手は身体の脇に沿う形でだらりと力なく垂れ下がり、足元に至っては今にも倒れ込んでしまいそうなほどにぐらついている。
辺りに飛び散った鮮血は、地に伏した三人との激闘の痕跡だろうか。
立っているだけで精いっぱい、誰が見てもこれ以上の戦いは無理であろうという満身創痍の身体を押し、アシュヴァルは次の相手を求めて叫び声を上げた。
「次だ!! 次は誰だあっ!?」
現れた少年の姿も目に入らないのだろう、周囲を眺め回しながらアシュヴァルは叫び続ける。
「早く掛かってこいって言ってんだよ!! どうした!? おじけづいちまったか——!? 次だ、次!!」
「あ……」
少年は声にならない声を漏らし、輪の中央で吼えるアシュヴァルの元へと駆け出す。
「アシュヴァルっ!!」
はじかれたように振り向いたアシュヴァルの瞳からは、瞬く間に戦意と闘志の光が消え、代わりに驚愕と焦燥の色が宿る。
「お……お前、なんでここに——」
目の前の状況が信じられないといった様子で呟いた直後、彼は表情をゆがませて絶叫にも似た声を上げた。
「——まだこんな所うろちょろしてやがったのかよ!! 行け! ……さっさと行けって言ってんだろうが!!」
「違うんだ! も、戻ってきたんだ!! ……ど、どうしても伝えたいことがあって——」
早く用件を伝えなければと思いつつも、その痛ましい姿に動揺を禁じ得ない。
激しく取り乱しつつも歩み寄ろうとする少年だったが、突如として後方から動きを封じられる。
無理やり腰をひねって見たのは、いつの間にか背後に回り込んでいたバグワントだった。
「悪いがそこまでだ」
「う——」
あくまで冷静な口調で告げると、バグワントは片手でもって少年の身体をいともたやすく持ち上げる。
頸部と胸部を抱え込む腕を押しのけようと必死に身をよじるが、バグワントの強靭な腕はびくとも動かない。
ならばと中空に浮いた両足を盛んに暴れさせて抜け出そうと試みるも、拘束はまったく緩む気配を見せなかった。
「バグワント……! お願い——離して……! 君たちに……話が——」
胸を圧迫される苦しさに耐え、あえぐような声で嘆願する。
しかし、言葉半ばにして自身に向けられた里長ラジャンの視線を見て取り、少年は半ば反射的に押し黙っていた。
「小僧よ——」
我関せずといったそぶりで傍観していた彼が重々しい口を開くと、思いを伝えようという意志はいとも簡単にくじかれる。
「——威勢がいいのは結構だが、こちらも取り込んでいてな。今は貴様に係っている暇などないのだ。少しばかりおとなしくしていてもらおう」
「で、でも……」
刺すような鋭いまなざしを正面から浴びれば、以前と同じく全身の筋肉が硬直したように固まってしまう。
「乃公に二度同じことを言わせるなよ。話とやらは後ほど聞く。まずは貴様だ——」
言ってラジャンは少年から輪の中央へと視線を移し、不敵な笑みを浮かべてその名を呼んだ。
「——なあ。小さなアシュヴァル。貴様が身を賭してまで守ろうとした小僧は、自ら進んで縄を打たれにきたぞ。さあ、どうする」
膝に立てた腕で頬杖を突いたまま、ラジャンはアシュヴァルに向かっていくらか上機嫌にも聞こえる口ぶりで問い掛ける。
「……ねえよ」
肩で息をするアシュヴァルだったが、決然とした表情でラジャンをにらみ返す。
荒い息遣いと重なってくぐもった声に、ラジャンは首をかしげた挑発的な態度で応じた。
「聞こえぬ」
「——関係ねえって言ったんだっ!! いいかよ、里長ラジャン! あんたも含めて、ここにいる全員をぶっ倒してそいつを逃がす!! こっちははなからそのつもりだったんだ! やることはなんも変わっちゃいねえ!! ご託並べてる暇があったらよ、そこに一列に並べって言ってんだ!!」
振りかざした手を勢いよく払い、喉の裂けんばかりの大声で威勢よくたんかを切るアシュヴァルだが、ラジャンは余裕の笑みを崩さない。
さも愉快げな笑いを浮かべる彼に代わり、出し抜けに怒声を上げたのは別の人物だった。
「お前っ……!! いいかげんにしろ!! 里長に向かってなんて口利いてるんだよ!!」
言葉の主は、輪の一歩外れた所からアシュヴァルに対して恨みがましい視線を注いでいたシェサナンドだった。
彼もまたアシュヴァルに劣らぬほど傷だらけなのは、見張りを怠った制裁を受けたためだろうか。
シェサナンドは大股で輪の中まで歩を進めると、アシュヴァルに向かって傲然と人さし指を突き付けた。
「少しでも見直そうって思った俺が莫迦だった! お前はなんにも変わっちゃいない……! 戦士になることを諦めて里を捨てたあの日から!! お前は……お前は——あの日のままの腰抜けアシュヴァルだ——!!」
激しい剣幕で怒鳴りつけるシェサナンドだったが、アシュヴァルはそんな彼をどこか冷めた目で見据えていた。
「……ああ、そうだな。お前の言う通りだよ。芯の部分じゃなんにも変わっちゃいねえんだろうさ。がきの頃は時が経てば勝手に大人になれるもんだとばっかり思ってたけどよ、いつまで経っても、あの日のわからず屋で甘ったれの俺のまんまだ。このままだらだら生きて——このままずるずる死んでいくもんだって……どっかで諦めてたよ」
自嘲めいた笑みを浮かべ、アシュヴァルは「ふ」と鼻を鳴らす。
「だけどよ、捨てたもんじゃねえよな。きっかけってのは、案外そんなときにころっとやって来るもんなのかもしれねえ。——変わらねえし、変われねえ。そんな俺を変えてくれた奴がいる。変わっていくのも悪くねえって、そう思わせてくれた奴がいる。だからよ——」
「うるさい!! うるさいうるさい!! 腰抜けアシュヴァルが偉そうに講釈垂れるなっ!! 変わろうが変わるまいが、お前は里を逃げ出した意気地なしの臆病者だ!!」
アシュヴァルの言葉を遮って喚き散らすように言ったのち、シェサナンドは後方に座すラジャンに対して膝を折った。
「里長……!! 俺にやらせてください!! 俺の手でこいつを——」
食い付かんばかりの形相で見上げる彼に一瞥を投げると、ラジャンは物憂そうに手を払ってみせる。
そのしぐさを許可と捉えたのだろう、立ち上がったシェサナンドは正面からアシュヴァルと対峙した。
「——ったくよ、だから何度も言わせんなって。こっちは立ってるだけで今にも飛んじまいそうなんだ」
自嘲交じりに言ってぐらりと身体をよろめかせたと思うと、アシュヴァルは「おっと」と声を漏らして体勢を立て直す。
気付けでもするかのように拳で側頭部を打った彼は、いら立ちに表情をゆがませるシェサナンドに向かってあざけるような笑みを浮かべて続けた。
「なんでもいいからさっさと掛かってこいよ、シェサナンド。後がつかえてるんだ。人気者も楽じゃねえや」
上向きの人さし指で招くようなしぐさを見せるアシュヴァルに、シェサナンドはこれ以上ないほどにいきり立つ。
「お——お前っ!!」
怒り心頭に発したであろう彼は、激情もあらわに勢いよくアシュヴァルに飛び掛かった。