第八十三話 天 眼 (てんげん) Ⅱ
「ここで橋を落とせば……」
自由市場にたどり着いたのちは、皆の託してくれた金を頼りに静かに暮らし、おいおいに仕事を見つけてローカと共に生きていく。
それが、アシュヴァルの示してくれた、この先の身の処し方だった。
知らぬ土地で暮らすことに対して抱く不安は決して小さくなかったが、鉱山での過酷な日々を思い出せば、どんな困難な未知でも歩んでいける気もする。
守られていた側から、今度は守る側に回るとなれば、泣き言めいたことなど並べている場合ではないのだ。
「でも——」
呟いて剣の鞘と柄を握った手を緩めると、振り返った少年は後方に座り込む少女を見下ろした。
小さく左右に首を振り、固く目を閉じて歯を食いしばる。
「——それは……できない」
拳を強く握り締め、葛藤と苦悩にうめき声を漏らす。
谷に架かるつり橋とともに過去を切り捨ててしまえば、確かにローカと二人で生きていくことはできるかもしれない。
だが、それと引き換えに失うものの大きさはどれほどだろう。
ローカを見捨てて生きれば必ず後悔をすることになるとは、過去の自分が語った言葉だった。
では異種が鉱山を襲うであろうことを知っていて、みすみす事態を見過ごすという選択は、それと何が違うのだろう。
異種の接近を察知できたのはローカの不思議な知覚があればこそで、鉱山の皆は事態にまったく気付いていない可能性も十分にあり得る。
加えて用心棒を務めていたアシュヴァルも鉱山を離れ、異種を迎え撃つ態勢が万全に整っていないということも考えられる。
異種の群れに襲われた鉱山はいったいどうなるのだろうか。
坑夫仲間や酒場の主人たちの痛ましい姿、世話になった住人たちの混乱と恐慌に陥って逃げ惑う様を想像すれば、戦慄を覚えずにはいられない。
見過ごすといえば、里長ラジャンに立ち向かう道を選んだアシュヴァルも同じだ。
それが、たとえ互いに交わした約束の結果だったとしても、自ら盾になろうとする彼を差し置いて進むことは、間違いではなかったのかと自問する。
「アシュヴァルがいたから、自分は自分になれたんだ。強くなりたい、優しくなりたいって思って、だから君の……ローカの力になりたいって——それで鉱山の皆も応援してくれて——」
これまでを顧みれば、思わずそんな言葉が口を突いて出る。
ローカには、アシュヴァルが身をていして逃亡を手助けしてくれたことを話していない。
だが見詰めるそのまなざしは、彼女が全てを察しているようにも見えなくない。
乱れた心を落ち着かせるように、大きな深呼吸を一つする。
「今の自分があるのは——全部アシュヴァルのおかげなんだ。アシュヴァルとみんなが、自分を……今の自分に、人として生きられるようにしてくれたんだ……!!」
無表情をもって見上げる少女を——普段通りの感情をうかがい知ることの難しい彼女の目を真っすぐに見詰め返し、少年は決然として意を告げた。
「ローカ、自分は行くよ」
思い返せば、アシュヴァルはいつも笑っていた。
「お前はさ、あれこれ考え過ぎのくせに勢い任せなんだよな」と、あきれ交じりにだ。
それに関しては、返す言葉を持たない。
出会って数か月、そうして彼を困らせてきたのだ。
だがそれと同じように、彼がこういった場合にどんな行動を選び取るのかは容易に想像できる。
いかにも面倒くさそうに「仕方ねえなあ」と呟きはするものの、皆を守るために鉱山へと駆け付けるのがアシュヴァルだ。
今の自身が鉱山へ向かったとして何ができるのか、何かが変わるのかはわからない。
戦う力も持ち合わせておらず、ただラジャンの屋敷から持ち出したひと振りの剣が手の中にあるのみだ。
扱い方も知らないそれ一つで何かができるとも思えないが、それでも数か月を過ごした故郷の危機を黙って見過ごすことなどできない。
まじろぎもせず、真っすぐに見詰める少女に歩み寄ると、膝を突いた少年は正面から彼女に向き合い今一度告げる。
「君はここで待ってて」
座り込んだ態勢のまま、少女は無言で手を伸ばす。
事有りげなしぐさを前にして、伸ばされた少女の手を握り返そうとする少年だったが、彼女の手は掌の脇を通り過ぎ、頬へと添えられた。
「ローカ、な、何して……」
体温をどこかに置き忘れてきてしまったかのような冷ややかな手の感触に、胸は早鐘を打ち鳴らし始める。
そんな動揺をよそに、もう一方の手も少年の頬に添えた彼女は、自ら頭を振って隠されていた左目をさらした。
光を失った少女の左目で見詰められると、不意に脳裏に先ほどとはまた別の光景が浮かび上がる。
それがここではないどこかで、今まさに起きている出来事であると理解した次の瞬間、少年の意識は一気に現実へと引き戻されていた。
頭痛と悪心に顔を伏せそうになりつつも、少女の瞳を見詰め返す。
「信じるって言ってくれた」
変わらずの無表情をたたえて呟く少女の言葉から、それが彼女が意図して見せた光景であることを知る。
そして、なぜそれを見せられたのかを察し、少年は力強いうなずきを返した。
「わかったよ……!!」
再び立ち上がり、覚悟を確かめるように左右の拳を固く握り締める。
「絶対に戻ってくる。必ず戻ってくるから、だから——ローカはここで待っていて。だけど——もし……じ、自分が戻ってこなかったときは……」
不意に襲う一抹の危惧の念に弱気を出しかけるが、じっと見上げる少女の視線を受け、はたと口をつぐむ。
「あなたは戻ってくる、必ず」
「そ、それも……見えるの?」
小さく左右に頭を振って少女は答える。
「それは見えない。未来は見えない。見えないから、わからない。わからないけど——」
そこまで言ってローカはひと呼吸置く。
そして情味の抜け落ちた顔に、それと気付かなければわからないほどのかすかな笑みを浮かべて言った。
「——信じる。わたしの声を聞いてくれた。わたしのことを見てくれた。わたしを信じてくれたあなたを——わたしも信じる」
見下ろす少女に、今一度思いを込めた首肯を送る。
「必ず戻ってくる。——約束」
「約束」
顔を見合わせて言い交わすと、少年は少女に背を向けて走り出した。
谷風に揺れるつり橋を一足飛びに駆け抜け、山間の道をひた走る。
約束——。
噛み締めるように、心の中で繰り返す。
人として生きるということは、守るべき約束が増えていくことなのかもしれない。
積み重なった大小さまざまな約束が、何もなかった空っぽの器に人としての心を与えてくれているのかもしれない。
そんなことを考えながら、少年は少女の示した場所に向かって猛然と走り続けた。