第八十一話 予 兆 (きざし)
寝床にしていた茂みに戻った少年を待っていたのは、膝を抱えて座り込む少女だった。
じっと見上げる様子からは、この瞬間に自身の戻ることを知っていたかのようにも見える。
説明もほどほどに、今すぐこの場を離れることを提案すれば、少女は何も聞かず黙って同意を示し、自由市場へ続く道を目指すことになった。
ローカの具合は変わらず思わしくなく、一人で歩くことは難しい状態にあった。
それでも彪人たちが動き出すであろう夜明けまでに、可能な限り距離を稼いでおきたい。
身をていして逃亡を手助けすると買って出てくれたアシュヴァルのためにも、ここで捕えられるようなことは決してあってはならないからだ。
アシュヴァルが気掛かりでならなかったが、ローカの前では努めて平静を装った。
「つらいだろうけど、今は休んでいられないんだ。……ごめん」
力の抜けたローカの身体を抱えて歩き出す。
すでに日は昇り始めており、アシュヴァルの言が確かならば、彪人たちが総力を挙げての捜索に乗り出している頃だ。
一刻の猶予も許されない状況であることはわかっていた。
だが、短い睡眠と不十分な食事で疲労の癒え切らぬ状態での山越えは、想像以上に困難を極める。
心苦しさに苛まれつつ顔を見詰めると、冷や汗を浮かべた少女は自らの意志を示すかのようにうなずいてみせた。
ローカは知っているのだろうか。
物音の出どころを探りにいった先で、アシュヴァルと再会したこと。
そして、そこであった出来事を隠していることを。
西にある自由市場を目指すと前置きなく言い出した際も、彼女はその経緯や理由を尋ねることはしなかった。
ただ黙ってうなずき、以降も進むべき方向を示して続けてくれている。
胸中を奥底まで見透かされているのだろうか。
ふと不安が脳裏をよぎるが、たとえ知られたとしても、困ることなど一つもない。
うそのつけない、隠し事ができないの自身が、彼女に対して秘密を抱えようと思うこと自体がおこがましいのかもしれない。
日が中天に差し掛かろうかという頃、山道を歩き続けていた二人はアシュヴァルの言っていたつり橋のたもとへとたどり着く。
追っ手の姿が見えないということが、アシュヴァルが身体を張ってラジャンたちを引きとどめてくれている何よりの証左だ。
彼の元に戻りたいという未練を残しながらも、切り立った深い谷に架かるつり橋へと足を進める。
橋のはるか下方には、白波を蹴立てて流れ下る川が見下ろせた。
谷の上流と下流を見渡してみても、架かっているのは目の前のつり橋一本のみだ。
空を飛ぶことのできる嘴人たちを除けば、急流を対岸へと渡る手段は他にないだろう。
谷底から吹き上げる風を受けて揺れるつり橋を前に、少年は昨夜アシュヴァルから言い渡された指示を思い返していた。
「……いいか、よく聞けよ。お前らが渡り終わったら、そいつで——その剣でつり橋を落とせ。俺のできる時間稼ぎなんざ高が知れてる。でもよ、橋を落とせばお前らを追うことができる奴はいなくなる。旅の連中には申し訳ねえけどよ、この期に及んで手段なんて選んでらんねえからな」
図らずも屋敷から持ち出すことになってしまったラジャンの剣を顎先で示しながら、アシュヴァルは言った。
彼の言いつけを守ってつり橋を落とせば、対岸にたどり着くすべは、空を飛ぶか激流を泳ぎ渡るかしかなくなる。
もちろん他に道がないとも限らないが、当面の間はこの地を介した一切の移動が遮断されることになる。
自らの手で橋を落とすという行為は、過去を断ち切ることと同義だった。
ここから先へ進むためには、あらゆる過去と決別しなければならない。
半年間で得た思い出をすべて捨て去り、たどり着いた先でローカと二人の暮らしを始めるのだ。
身体の片側で彼女を支え、逆側の手で手すりをつかみ、つり橋へと足を踏み出した。
「う、うわっ……!!」
三分の一ほど進んだところで、風に吹かれた橋板が大きく揺れる。
蔓を編んだ綱に木板の桁を渡しただけの簡素な造りのつり橋は、谷風が吹き上げればたやすくあおられてしまう。
少女を抱えて腰を落とし、いったんその場にとどまって風がやむのを待った。
その際に図らずも深い谷底を見下ろしてしまい、寒気にも似た掻痒感が足元から立ち上ってくる感覚を覚える。
頭を振って乱れた気持ちを切り替えると、下は見ずに前だけを見据え、不安定に揺れるつり橋の上を進んだ。
ちょうど橋の中ほどまで歩き進めたところ、突如としてローカが異変を訴える。
身体をこわばらせて「う」と小さなうめき声を上げ、全身を弛緩させた彼女は、少年の手の中から擦り抜けるようにして橋板の上に崩れ落ちてしまった。