第八十話 風 戦 (かぜそよぎ) Ⅱ
「アシュヴァル……!! こ、これ——っ!!」
腰帯から鞘ごと剣を抜き取ると、手にしたそれを両手でささげ持つようにして差し出す。
「これ、この剣……! ラジャンに返そうと思うんだ! 持ってきちゃったけど、本当は使ったらすぐに返すつもりで……信じてもらえないかもしれないけど本当なんだ!! だから、ちゃんと返して謝るよ! それで……自分の身柄もラジャンに預ける!! ローカの代わりっていうわけにはいかないかもしれないけど、だからせめてあの子だけは——」
「莫迦なこと言ってんじゃねえよっ!!」
勢い任せに言い連ねる少年を遮り、アシュヴァルは雷鳴のような一喝を放った。
「遅えんだよ!! もう返す返さねえの問題じゃねえのがわかんねえのかっ!! それにお前が身代わりになるってんなら、あの娘はどうすんだ!? こんなとこまで連れ出しておいて、そんで一人で放り出して後は知らん顔か!? あんだけでけえ口たたいといてだ、分が悪いってわかったら聞き分けよく引っ込められちまう程度のもんなのか!? お前の固めた覚悟ってやつはよ!!」
「ち——違……」
「違わねえっ!!」
弁明しようと口を開くが、アシュヴァルは先回りするように言って少年の言葉を打ち消した。
「お前はいっつもそうやって、一人で勝手に突っ走ろうとする……!! 一番の悪い癖だってよ、ここんとこにしっかり刻んどけ」
親指で自らの胸を指し示して言うと、アシュヴァルはいつになく真剣な表情で続ける。
「残念だけどな、お前じゃあの娘の代わりは務まらねえ。同じようにな、あの娘にもお前の代わりはいねえんだ。あの娘を守るってよ、自分で決めたんだろ。だったら——男が一度守るって決めたんなら、最後の最後まで守り抜いてみせろ。だからよ——」
顎をしゃくり、少年の手元を指し示す。
「——そいつはお前が持ってろ。俺のもんでもなんでもねえけど、この先必ずそいつが必要になる。大切なもんを守るために戦わなくちゃならねえときってのは、いつか必ずくるもんだ」
「う、うん……! ——わ、わかった」
両手で剣の鞘を握り締めながら深くうなずき、かねてから伝えたかった言葉を口にする。
「その、アシュヴァル……! あの、お金——! それから食べ物も……」
「ん? ——ああ、あれか」
まるで人ごとのように答え、アシュヴァルは口元にかすかな笑みを浮かべた。
「あれもお前が持ってろ。悔しいが、最後の最後まで裏切らねえのは結局のところ金だ。剣や槍と違ってよ、どんな不器用な奴でもそれなりに扱える便利な道具だ。お前が強くなって、自分の力で誰かを守れるようになるまでは、あれがお前らを守ってくれるだろうさ。……けどな、忘れんじゃねえぞ。使いどころを間違えりゃあ、剣も金も簡単に牙をむく。役に立てるも逆に足すくわれるも、結局は使う奴次第だからよ」
言って肩をすくめると、アシュヴァルは一転思い詰めたような険しい顔つきで少年に向き直った。
「いいか、よく聞けよ。こっからずっと西に向かえば、旅の連中が自由市場って呼んでる場所がある。お前はあの娘を連れてそこに向かえ」
「自由——市場……?」
「そうだ。市場って言ってもでっけえ集落みてえなもんだ。俺は一度しか行ったことねえけど、あそこならお前らみてえな少し変わった奴らが暮らしてても、きっと目立たねえ。行商人や旅芸人なんかをなりわいにしてる流れ者がひっきりなしに行き来する場所でよ、住んでる奴らも他人に興味がねえ。脛に傷持ってるような奴や、偏屈な好事家連中、世捨て人みてえな奴らなんかも暮らしてる。お前の知ってるしけた鉱山の町なんか比べ物にならねえぐらいでけえ集落だ。見て驚くんじゃねえぞ」
言いながらアシュヴァルは、どこかおどけたしぐさで自らのこめかみを指さしてみせる。
「だからお前らもほとぼりが冷めるまで——そうだな、二、三年ぐらいそこで静かに暮らせ。そんで落ち着いたと思ったら、どこかもっと遠く——里長の目の届かない場所で生きろ。バグワントの奴も言ってたが、里長は飽きっぽいからな。話が耳に入ってこないようになれば、お前らのことなんて奇麗さっぱり忘れちまうだろうさ」
「ア、アシュヴァル……」
「なんだよ、お前が自分で選んだ道だろ? 自分で決めたんなら、後は自信持って進むだけだ」
動揺を隠せない少年を気に留めることなく、彼は進むべき方向を指し示しながら説明を続ける。
「一度しか言わねえからよ、よーく頭にたたき込んどけ。この先をずっと進むと道が二股に分かれてる。北っ側はお前もよく知ってる鉱山に続いてるから、そこを西へ行け。そのまま山沿いに歩くとつり橋が見えてくる。そんで渡り終えたら——」
アシュヴァルは西の地にあるという自由市場という名の集落への道のりを語って聞かせ、続いて道中で取るべき行動を告げた。
「——んで、そっから続く桟道を進んで五日ぐらい……そうだな、お前の足でも十日かそのくらい川沿いを歩けば、自由市場にたどり着けるはずだ」
「で、でも……! そんな——自分には……」
言い付けを受け入れられずに激しく戸惑う少年に対し、アシュヴァルは頭ごなしに迫り立てる。
「そんなもこんなもねえ!! わかったなら急げって! 本当はこうして話してる時間も惜しいってのがなんでわかんねえんだ!! いいからさっさとあの娘を連れて、一刻も早く市場を目指せって言ってんだよ!! 行け!! 早く行けよっ!! ——おら、早くだっ!!」
急かすような声音からは、強烈な緊張と不安とが伝わってくる。
ただならぬ様子を見せるアシュヴァルを前に、少年は彼が大きな覚悟をもって何かをなそうとしていることを確信する。
「アシュヴァル、君は……何を——」
恐る恐る尋ねると、彼は興奮と諦観の入り交じった表情を浮かべて答える。
「言ったよな、朝には山狩りだって。彪人が……里長が本気を出せばお前たちの逃げる時間なんて待っちゃくれねえ。だから俺が——」
アシュヴァルはどこか遠くを見据えるような、それでいて力強いまなざしを見せ、覚悟を決めるように言い切った。
「——里長を食い止める。里長だけじゃねえ、あいつら全員まとめて俺が相手してやる。お前らの逃げる時間は俺が稼ぐ。わかったら……さっさと行け」
「そ、そんな……! そんなことできないっ!! アシュヴァルに全部押し付けて、自分たちだけ逃げるなんて!!」
背を向けたアシュヴァルの身体からにじみ出るのは、揺るがぬ意志と不退転の決意だ。
同じ彪人である里長ラジャンたちとたもとを分かつことなどあってはならないと、なんとかして彼を押しとどめようとする。
だが、続けて放たれたひと言を受け、少年は図らずも口をつぐんでしまった。
「約束」
「……え」
「覚えてっか? したよな、約束。お前があの娘を守ろうって決めるよりずっと前、俺もお前のことを守るって約束しただろ。最後まで面倒見てやるって。忘れちまったなんて言わせねえぞ」
「わ、忘れるわけないよ!! 覚えてる……覚えてるに決まってる!! でもこんな形で——」
「だから、こんなもそんなもねえんだっ!!」
訴え掛けるように言うが、アシュヴァルは声を荒らげて容赦なく切り捨てる。
「必ず守ってみせろ。お前もお前が大事だって思える相手を守って、お前の正しさを証明してみせろ。俺も——絶対に守ってみせるからよ」
「で、でもアシュ——」
なおも背に向かって声を掛けようとする少年だったが、アシュヴァルは後ろを向けたまま頭上に手を掲げて遮った。
「小賢しいこと言うんじゃねえぞ。お前が俺の心配なんて百年早えんだよ。そんなん気にしてる暇があったらよ、荷物まとめてさっさと逃げろって言ってんだ」
そこまで言って掲げた手を所在なげにさまよわせると、アシュヴァルは自らの首筋をさすりながら呟くように続けた。
「……飯、ちゃんと食えよ。酒には十分気を付けろ。あとそれから……あんまりなんでもかんでも面倒事に首突っ込むんじゃねえぞ。他には——あれだ、いちいちあれこれ難しいこと考えんな。お前はお前の思うように生きりゃいい。必要なもんはいくらでも後から付いてくんだからよ。そんで一歩ずつ——少しずつ強くなれ」
早口で一方的に喋り立てたのち、アシュヴァルは顔だけを少年に向けて目を細めてみせた。
「最後に顔が見れてよかったぜ。——あばよ、達者でな」
言い残すと、アシュヴァルは足音もなくこつぜんと樹々の合間に消えた。
少年はがくりと肩を落として脱力し、その消え去った方向を涙のにじむ瞳で見詰める。
「アシュヴァル……」
崩れ落ちるようにうずくまり、大地を拳で打ちながらその名を口にした。
座り込むこと数秒、折れんばかりに奥歯を噛み締め、意を決して立ち上がる。
雑な手つきで涙を拭い、頬を張って自らを奮い立たせると、ラジャンの剣を握り締めてその場から走り出す。
今の自身にできること、それはアシュヴァルの思いを不意にしないということだけだ。
彼の作ってくれる時間を無駄にすることなく、ローカと共に彼の示してくれた自由市場へ落ち延びることだ。
そして、ローカと交わした必ず迎えにいくという約束、それをたがえることなく守り続けること。
アシュヴァルと交わした、新たな約束だった。