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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第四節 「あてなき逃避行」
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第七十九話  風 戦 (かぜそよぎ) Ⅰ


 不意の物音を聞き留め、少年は浅い眠りから目を覚ます。

 即座に周囲に少女を探し、自身の肩に頭を預けて眠る姿を認めて安堵した。

 思えばこの数日、彼女が物音が聞こえるほどの距離まで他者の接近を許したことは一度もなかった。

 心身両面で、相当の疲労が蓄積しているであろうことは想像に難くない。

 十分に休息を取らせてあげたいと何度も思ったが、今ここで立ち止まることは許されない。


 聞き留めた物音のことを思い出し、改めて周囲に注意を払う。

 その正体が彪人たちであったなら、みすみす逃亡を許すようなまねはしないはずだ。

 彪人たちでなければと、音の出どころに思いを巡らせる。

 山中を進む旅人である可能性を考慮するが、逃亡者である自身ら以外に、好きこのんでこんな悪路をかき分けて進む者などいようはずもない。

 他に思い当たるものがあるとしたなら、件の異種と呼ばれる生き物か。

 異種と遭遇するようなことがあれば、戦う力を持たない自身などひとたまりもないだろう。

 聞き違いや空耳の類いだと信じたかったが、自己の都合のいい方向に物事を捉えるのは危険極まりない行為だ。

 起こしてしまわないよう細心の注意を払い、小さな寝息を立てるローカの身体を地面に横たえる。

 掛け布でそっと身を包むと、ラジャンの屋敷から持ち出した剣を手に、忍び足でその場を離れた。


 朝になれば是が非でも歩き出さなければならないのだ。

 ならば、ほんのわずかでも長く休ませてあげたい。

 ここは彼女の力に頼るより、己の目と耳で確かめる場面だ。

 剣の鞘を握り締め、足音を殺して物音のした方向に歩を進めるうち、少年は聞き留めた音の正体を捉えたのだった。


「なんだ、風か……」


 夜風にそよいで擦れ合う樹枝が音の源であることを見て取り、少年はほっと人心地を取り戻す。

 大きく息をついて安堵の胸をなで下ろし、踵を返して少女の元へ戻ろうとしたところで、不意に樹の陰から放たれた声を聞いた。


「風じゃねえよ、莫迦ばか


 突然の声にすくみ上がる気持ちを押して振り返り、樹の陰から半身をのぞかたその姿を認める。

 闇夜にも鮮やかに浮かび上がるのは、もはや懐かしくも思える見慣れた縞模様だった。


「あ——」


 思いも寄らぬ再会に、思わず声を詰まらせる。

 動揺に言葉を失いつつも、一歩、また一歩と近づこうとするが、彪人は——アシュヴァルはあくまで冷淡な口調で言い放った。


「そこ、動くんじゃねえ」


 冷酷な宣告を受けてぼうぜんと立ち尽くす少年を横目に、アシュヴァルは樹の幹に背を預けたまま言葉を継ぐ。


「お前は俺と別の道を行く。——そう決めたんだろ。ご丁寧にあいさつまでして出ていったお前がよ、どの面下げて俺のところに戻ってこようってんだ」


 感情を殺した素っ気ない口ぶりに激しく胸を突かれるとともに、その口にしたひと言で、別れを告げたあの夜、彼が眠ってなどいなかったことを悟る。


「アシュヴァル、お……起きて——」


「だから動くなって言ってんだろ。それ以上近づくんじゃねえよ」


 再び歩み寄ろうとする少年に対し、アシュヴァルは声を抑えつつも語気荒く告げる。


「そ、そんな——」


 樹の陰にその姿を見つけたとき、心のどこかで彼が自分たちを追い掛けてきてくれたのかと早合点した。

 これからも一緒にいてくれるかもしれないと、逃亡を助けてくれるかもしれないと、淡い期待を抱いてしまった。

 だが、幹に背を預けて自身を見据えるまなざしは、甘い幻想をひと息に吹き飛ばすほどに鋭い光を帯びていた。


「わかりゃいい」


 足を止めた少年に向かって突き放すように言い捨てると、アシュヴァルは顔を伏せたまま一方的に語り始めた。


「今日はよ、一つ忠告があって来ただけだ。取りあえず黙って聞いとけ。——いいな」


 強く念押しをした上で、アシュヴァルは言って聞かせるような口ぶりで続ける。


「お前たちに逃げ場はもうねえ。どんな手使って逃げ回ってたのかは知らねえけどよ、あんまり彪人をなめるんじゃねえぞ。どんだけ身を隠して逃げようと、あちこち身体擦り付けて歩いてりゃ、においがお前たちの居場所を教えてくれる。においはうそつかねえんだ。——いいか、夜が明けたら山狩りが始まる。そうなったらもう追い掛けっこはおしまいだ」


 あぜんとして言葉を失う少年に対し、アシュヴァルはあくまで淡々と畳み掛ける。


「この際だからよ、ついでに教えといてやる。お前たちを追ってるのは、下っ端連中なんかじゃねえぞ。……相当頭にきてんだろうな、里長自らお出ましだ。里の戦士ども総出で、お前たちを引っ捕まえる気だぜ」


 自嘲的にも見える笑みをたたえて言う彼を見上げ、少年は恐る恐る問い掛ける。


「アシュヴァル、君もその……追っ手なの……?」


「違う」と否定の言葉を期待して問うも、返ってきたのは最も恐れていた答えだった。


「そうだ」


 よそよそしい振る舞いから予想していなかったわけではなかったが、実際に自らの耳で聞いてしまうと、衝撃の程は極めて大きい。

 思わず後ずさりをし、じっと見据えるアシュヴァルから距離を取る。


「き、君も……自分たちを——」


 ここまで逃げ延びることができたのは、全てローカのおかげと考えていた。

 だが、アシュヴァルの口ぶりからは、それが勘違いだったのかもしれないと受け取ることもできる。

 彪人の戦士たち総出とアシュヴァルは語ったが、たった二人を捕えるのにそこまでの戦力などは不要だろう。

 彪人たちがにおいで居場所を嗅ぎ取ることができるのだとしたら、その版図の中で動き回っている自身らは、すでに彼らの掌中にあるということに他ならない。

 ラジャンの真意は定かではないが、あえて泳がされていたのだとすれば納得のいく部分もある。

 逃げ場を失って袋小路に追い詰められていくこの状況こそが、ラジャンの与えた不届きに対する罰なのだとしたら。

 となればこの状況自体がラジャンの筋書きであり、逃げ切る見込みなど最初からなかったということになる。


 頭をひねり、なんとか逃げる手立てはないものかと懸命に思考を巡らせる。

 だが、その様子を目にしたアシュヴァルは、唇の端をつり上げて皮肉な笑みを浮かべてみせた。


「——ほんと、わかりやすい奴だよな。お前って」


「え……あ、その——」


 口ごもる様を鼻で笑い、アシュヴァルは背を預けていた樹の幹から身を起こす。


「何考えてるかわかるけどよ、多分そいつは無理だぜ」


 肩をすくめて言うと、彼は考えを読まれていたことに驚愕を覚える少年に向かって足を踏み出した。

 一歩、また一歩と、距離を詰めてくるアシュヴァルを前に、少年は身動き一つすることもできずに固まってしまう。

 アシュヴァルがラジャンの差し向けた追っ手のうちの一人であるなら、ローカと二人逃げ果せるためには、どうにかしてこの場を切り抜ける必要がある。

 今ここで自身が捕まってしまえば、次はローカの番だ。

 いかに不思議な力を持つ彼女といえども、極限まで疲弊した状態では、ラジャン率いる彪人たちから逃げ切れるわけもないだろう。


 意を決し、震える指先を腰の剣へと伸ばす。

 一歩ずつ足を進めるアシュヴァルの視線が一段と鋭くなったように見えたが、少年は迷うことなく剣の鞘をつかんだ。


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