第七十八話 星 天 (せいてん)
滞在した痕跡を可能な限り消し、ひと晩を明かした滝裏の岩窟を後にする。
翌日もローカは少年の一歩先を行き、何か見えないものに促されでもするかのように山中を進み続けた。
最小限の休憩を挟み、灌木や藪の中を忍ぶようにして歩く。
いつからか、少年は蓄積した疲労により歩みの鈍り始めたローカに肩を貸し、彼女の指し示す通りに歩を進めていた。
もちろん当の少年自身も限界に近い状態ではあったが、残された気力と体力を振り絞って自らを奮い立たせる。
もはや、精神力だけで持ちこたえていると言っても過言ではない状態だった。
日が落ちるまでひたすらに歩き続け、日の落ちた後も慎重に歩みを進め続けた。
◇
逃亡からの日数を数えることもしなくなったその日、二人は丘の斜面に位置する茂みを寝床に選んでいた。
食事と給水を手早く済ませ、身を寄せ合って朝を待つことにする。
たちまち眠気に襲われる少年だったが、ローカが何かを仰ぎ見るように顔を上向けていることに気付く。
彼女に倣って見上げた空に認めたのは、闇夜に点々と輝く小さな光の群れだった。
「星……」
知らずのうちに、光の名を呟いていた。
満天に無数の星がきらめく様に心を奪われ、それ以上言葉を継ぐことはできなかった。
星は何も、昨日今日に現れたものではない。
常に頭上にあって、逃亡者である自身らの道行きを見下ろしていたはずだ。
気付かなかったのは、今という瞬間まで夜空を仰ぎ見ることをしなかったからだ。
夜空を見る余裕などかけらもなく、前だけを向き、先へ先へと進むだけで精いっぱいだった。
もちろん、いまだ追われる身であることに変わりはなく、余裕も猶予もありはしない。
それでも足を止めれば見えるものはあり、止めなければ見えないものもある。
見上げる空に瞬く星々が、それを教えてくれたような気がした。
眠りに就くまでのわずかな間、ローカと少しだけ言葉を交わす。
求めに応じて自らの過去を語ってくれる彼女だったが、直後、少年は激しい後悔に襲われる。
半生を振り返って語らせることが、彼女に苦い記憶を思い出させるものでしかなかったからだ。
以前も軽率にアシュヴァルの過去に触れ、それが過ちだったと学んだはずだ。
にもかかわらず、再び同じことを繰り返す理由を自身の空白の過去に求めたくなるが、それはただの言い訳に過ぎない。
途中で話を止めることもできたはずだった。
話さなくていいと遮ることもできたが、それをしなかったのは他でもない自分自身だ。
止めることも耳をふさぐこともせず、寡黙な少女の語る言葉に耳を傾け続けていた。
ローカは物心ついたときから誰かの持ち物の身で、最初の記憶もそこから始まっていると語った。
一人目の主は豊かな豪商の男で、彼女の特異な外見に美を見いだした。
少女を愛玩用の人形としてしか見ていない男は、彼女が口を利くことを禁じた。
二人目の主は孤独な老婆で、彼女に話し相手としての役割を求めた。
その務めを全うすべく、少女は精いっぱい考えを述べたが、女が望んだのはただ黙ってうなずくことだけだった。
三人目の主は暴力的な男で、しばしば彼女を殴った。
泣き叫べば余計に殴られることを知り、少女は口を閉ざすようになった。
殴られたことにより左目の視力を失ったのもそのときで、それからは言葉とともに自らの感情を殺して生きる道を選んだ。
所有した全員が不遇の死を遂げ、あるいはこつぜんと姿を消したと語る彼女の瞳に、わずかに影が差すところを認める。
ローカはその後も何人かの下を転々とし、最終的にあの蹄人の商人の手に渡ったのだと語った。
「君は……」
星明かりの下、少女に向き直る。
「……ローカはどうしたいのかな——って。このまま自由になれたら、君はどういうふうに生きたい? 明日から——ううん、今日から」
深く思惟しているのだろう、彼女はうつむいたまま考え込む。
寸刻の間を置き、顔を伏せたまま呟くように口を開いた。
「——てもいい」
「今、なんて言ったの……?」
耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな声に、尋ねて彼女の口元に顔を寄せた。
顔が触れ合う直前、不意に顔を上げた少女は少年を正面から見据える。
普段と変わらない、平坦で抑揚のない口調で彼女は言った。
「——生きてあげても、いい」
「生きて——え……?」
発せられた言葉の意味するところの理解できない少年には、平静を失って取り乱すことしかできない。
「そ、それはローカにとってうれしいことなの? 本当に……幸せなこと?」
恐る恐る探るように尋ねると、彼女は「ん」と無感情に呟いてうなずいてみせる。
「そ、それならよかった。……うん、よかった」
答え、小さく安堵の吐息を漏らす。
不可思議な言い回しではあったが、少なくとも生きていてもいいと彼女に思ってもらえたなら、自身の取った行いもまったくの見当違いではなかったのかもしれない。
捉えどころのない性格や物言いも、過酷な半生の中で後天的に見いだした世過ぎの手立てなのかもしれないと考えれば幾分か納得できる。
もっと早く——彼女がつらく悲しい思いをする以前に出会えていたならば、状況は違っていただろうか。
アシュヴァルが自身を救ってくれたように、彼女の救いになり得ただろうか。
静かに星空を見上げるローカを見詰め、思いを告げる。
「君と、生きていく」
思いを吐露する少年だが、隣に並ぶ彼女は特段驚いた様子を見せない。
「あなたがいるなら——」
ローカは呟き、返事代わりに肩に頭を預ける。
そして、彼女らしい——どこか不可思議な口ぶりで結んだ。
「——あなたのいる世界なら、あってもいい」
過去と記憶を持たない少年にとって、ローカはもう一人の自分自身だった。
どんな相手に見つけてもらったかによって命の価値が、その後の生き方が、存在の在り方が変わるのであれば、他者に命運を握られて生きてきた彼女は、あり得たかもしれないもう一つの可能性そのものだ。
限りなく幸運であったことを改めて自覚する。
アシュヴァルが見つけてくれ、拾ってくれ、生きる手段を教えてくれた。
それだけではない。
喜怒哀楽あらゆる感情も、優しさも厳しさも、強さも弱さも、全ては彼が教えてくれたものだ。
その庇護下で生きていくことができたならどれほど幸せだっただろう、不意にそんな考えが頭をよぎる。
だが、ローカと出会って、彼女の境遇を知ってなお、心地よい居場所に甘んじるのであれば、それは自分自身を殺すことと同義だ。
ここでローカを助けなければ絶対に後悔することになる。
アシュヴァルに向かって宣言したときの思いは今でも変わっていない。
願わくば、自分と出会ったことを、自分に見つけられたことを幸福だと思ってもらえるまで、彼女の傍らにあり続けたい。
決意を込めて手を握る。
少女もまた思いに応えるように優しく、力強く掌を握り返してくれた。