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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第四節 「あてなき逃避行」
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第七十七話  水 浴 (みずあみ)

 休憩を取る際は可能な限り交互に眠りに就き、常に周囲への警戒を怠らないように努めた。

 せめて寝ている間だけは気を張り通しのローカを休ませてあげたかったのだが、小さな物音や何かしらの気配を感じるたび、彼女はむくりと身を起こした。


 その夜も静かな寝息を立てるローカを起こしてしまわないよう、少年は膝を抱えたままじっと動かずにいたつもりだった。

 だが、身体越しに伝わる彼女の息遣いを聞いているうち、いつの間にか自身も疲労に任せて眠ってしまっていたことに気付く。

 不意に覚えた落下感に、びくりと身を震わせる。

 ふと傍らを見れば、つい先ほどまで肩にもたれかかるようにして眠っていたローカの姿がない。


「ローカ……?」


 慌てて周囲を見回すが、岩窟の中に少女の姿は見当たらなかった。

 重く鈍い身体を無理やり引き起こし、岩壁に手を添えて立ち上がる。

 滝の裏の岩窟から外を見れば、景色は淡く色づき始めており、夜明けが目前まで迫っていることを示している。

 その不在に言い知れぬ不安を覚え、岩窟を飛び出した少年だったが、果たして少女の姿はすぐそこにあった。


「あ——」


 衣服を脱ぎ去ったローカは、頭上の断崖から流れ落ちる滝に身をさらすようにして水を浴びていた。

 その姿を目にし、深い安堵の念を覚える。

 駆け寄るでも声を掛けるでもなく、沐浴をする少女をただ黙って見詰め続けた。


 差し込み始めた朝の日を受けて光る滝しぶきの向こうに見える裸身は、今まで見たどんなものよりもまぶしく——そして美しく映る。

 起伏や凹凸の少ない平坦な身体は、一部の器官の有無を除けば少女というよりも少年に近い。

 被毛は頭部の近辺にしか生えておらず、それ以外の箇所はどこも、もろく滑らかな皮膚が露出している。

 少女が自身と同じ、あるいは限りなく近い存在であることを改めて認識する。

 そして、肋骨が浮くほどに痩せ細り、白く透き通った身体にぶしつけな存在感を示すのが首に巻かれた鉄製の輪だった。


 他者の所有物であることの、奴隷であることの証明。

 彼女の身体の上にあっていまいましいそれすらも美しいと思ってしまいそうになり、湧き上がる考えを追い払うように忙しなく頭を振った。

 骨張った指先によって、濡れた頭部の毛がかき上げられたことにより、隠されていた右目があらわになる。

 まじろぎもせず見詰めてしまうのは、決して好奇や物珍しさからなどではない。

 頭部の被毛に覆われた左目は光を失ったように白く濁っていたが、少年の目には白く薄い身体と同様、この上なく尊いものに見えていた。


 口を半開きにして見入るうち、いつの間にか彼女の視線もまた自身に注がれていることに気付く。


「あ……え、その——」


 我に返ったのち、今更と知りつつ目を背け、口ごもるように言う。

 彼女はそんな少年の態度などまったく意に介することなく、水面を波立てながら一直線に近づいてくる。

 不意に手を取られ、はじかれたように顔を上げる少年の慌てぶりをよそに、少女は湖の中央に引き込むように手を引いてみせた。


「ローカ……?」


 わずかに抵抗の意を表してみる。

 だが、すぐに彼女の意を察すると、手を引かれるまま湖の中に身を沈めた。

 いざなわれるように滝の下へ向かい、少女と並んで流れ落ちる水を頭から浴びる。

 勢いよく降り注ぐ滝の水は身を切るほどに冷たかったが、それを上回る心地良さによってたちまち上書きされる。

 着衣のままであったが、こうして身体を清めるのも久しぶりだった。

 冷涼な水に身体を委ねれば、数日間の過酷な道行きの中で積み重なった疲労が洗い流されるような気がする。

 そればかりか、流れ落ちる滝に身を打たせていると、自分たちが追われる立場であること、行く当てなくさまよう身であることすらも忘れてしまいそうになる。

 そんなことを考えながら、隣に並んで滝の水を浴びるローカを横目に見やった。


 自身らの置かれている状況を、彼女はどう受け止めているのだろう。

 この数日間、何度も頭の中で繰り返した疑問だった。

 里長ラジャンの下から彼女を連れて逃げた自身の行動が、計画性を欠いた場当たり的なものであったことは否めない。


 彪人たちを振り切って、逃げ果せることができるのか。

 たとえ運よく逃げられたとしても、何も知らない自身が彼女を守って生きていけるのか。

 尋ねられたとしたなら、確信をもって「できる」と答えることはできない。

 そんな不確かで頼りない考えの元に連れ出されたとあっては、ローカも堪ったものではないだろう。

 彼女は自身と出会う以前よりも——誰かの持ち物であったときよりも幸福なのだろうか。

 生きていると、自由であるといえるのだろうか。


「……ローカ、君は今——」


 不意に襲う胸騒ぎにかき立てられるように口を開いたが、問い掛けの言葉が最後まで発せられることはなかった。

 少女が両手ですくい上げた湖の水が、開け放たれた口に浴びせられたからだ。

 多量の水を一気に飲み込んでしまったことで激しくせき込みながら、少年は少女の突然の行動の意図を問う。


「——どうして……うわっ」


 重ねて尋ねようとするも、ローカは水を浴びせる手を止めようとしない。

 口を開こうとするたび、彼女は両手ですくった水を浴びせ続ける。

 そんなやり取りを何度か繰り返すうち、いつしか少年も彼女に対して水を浴びせかけていた。


 そうしてしばらくの間、無我夢中で水をかけ合う。

 追っ手がすぐそこまで迫っていることも、先の知れぬ身であることも当然承知している。

 わずかな時間であると知って戯れ合う。

 小声ではあるものの久しぶりに声を出して笑い、少女も珍しく楽しげな表情をあらわにしていた。

 足を滑らせて全身水に漬かってしまった少年に、少女は両手ですくい上げた水を頭からかける。

「わっ」と声を漏らしてそれを受けたのち、少年は水底に手を突いて立ち上がる。


 反撃を試みようと少女を見据えたときには、すでに先ほど見せたわずかな笑みは消えていた。

 代わりに顔に浮かぶ覚悟とも決意とも知れぬ強い意志を宿した表情に、戯れの時間が終わったことを理解する。


 少年と少女は小さく——だが固く、うなずき交わす。


 自らの選び取った行動、その正否を判断するのは早計だ。

 考えるのも振り返るのも、二人で無事に逃げ果せ、新たな生き方を始められたそのときでいい。


「ローカ、ありがとう」


 岸辺に上がって頭から衣服をかぶり始めているローカに向かってひと言だけ告げ、少年は声を殺して小さなくしゃみを一つした。


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