第七十六話 逃 奔 (とうほん)
◇
少女と共に彪人の里を出奔し、三日が経った。
開かれた山道はあえて避け、山中の茂みの間の道なき道を踏み分けて進む。
日中は休憩もそこそこにひたすら歩き続け、夕暮れを迎え、日が落ちてなお、薄闇をかき分けるようにして先を急いだ。
腰を落ち着けて休むのは、辺りが完全に暗闇に包まれてからだ。
木陰や岩陰などに身を隠す場所を見つけたのち、携行食を分け合って食べ、肩を寄せ合って眠った。
ローカが一歩先を歩き続けるのは、山中でも変わらなかった。
何かに突き動かされるかのように先へ先へと進むこともあれば、立ち止まっては高所に登り、周囲に細かく注意を払うような動きを見せることもあった。
「こっち」
彼女が行く道を示してみせるたび、その目には進むべき方向が見えているのだと確信されられた。
予期していた通り、里長ラジャンは追っ手を放っていた。
接近を許してしまい、あわや遭遇という事態に追い込まれそうになったこともある。
だが、その際もローカの指し示す先に向かって進んだ二人は、追い迫る彪人たちの間隙を縫って危機を脱したのだった。
以降は追っ手に発見されないよう、より注意深く身を潜めながら山中を進み続けた。
自分たち二人が落人であることを強く自覚する。
捕まればどんな処分が待っているのかはわからないが、逃亡奴隷とその脱走を手助けした者の負う罪の重さは聞き及んでいる。
加えて、ラジャンの元から持ち出したのはローカだけではないのだ。
彼の宝物の一つである剣まで持ち逃げしていることも決して忘れてはならない。
ローカと剣。
二つの宝を奪われたラジャンの怒りたるや、いかほどのものだろう。
今できるのは、体力と気力の続く限り脇目も振らず足を動かし続けることだけだ。
少女に導かれ、無心で前に進む中、脳裏に一つの気掛かりが浮かぶ。
盗人を里に案内したことにより、おそらくアシュヴァルはなんらかの責めを負うことになるだろう。
騒ぎを起こした当人が言える立場でないのは重々承知しているが、それでもアシュヴァルの処遇が気に掛かって仕方ない。
罰が重くないことを願うばかりだった。
◇
彪人の里を発ち、五日が経った。
少年は身体的にも精神的にも限界を迎えており、少女も同様であることが顕著に見て取れた。
歩こうという意志はある。
一歩でも先へという意気込みもあった。
だが、心身を責め苛む疲労にはどうしてもあらがうことができない。
その日は早めに夜を明かす場所を見つけ、疲れた身体を休めることにする。
わずかでも距離を稼いでおきたいのはやまやまだったが、憔悴しきった身体を押して進むのは無理と判断したからだ。
聞こえてくる水音を頼りに進み、二人は頭上の岩場から滝の流れ落ちる湖へとたどり着く。
おあつらえ向きに、滝裏は大きく浸食されて岩窟を形作っている。
そこを今日の寝床と定めると、少年と少女は岩壁に背中を預けて座り込んだ。
岩窟内はひどく冷えたが、追っ手に気付かれないためにも、火をおこすことは許されなかった。
身を寄せ合い、一枚の掛け布を二人で使い、残りわずかな携行食を口の中で時間をかけて柔らかくして食べる。
彪人の里を発って以降、少年も少女も極端に口数が少なくなっていた。
元より物静かな少女だったが、この数日間で耳にしたのはほんの数言のみだ。
里長ラジャンによって放たれた追っ手を振り切り、彼の力の及ばない場所まで逃げ続ける。
それ以外に逃亡者が生き延びる道はない。
身体的にも精神的にも疲労の甚だしい今、口を開く余裕があるのならばその力を一歩でも足を前に進めることに使いたかった。
膝を抱えて物思いにふける少年の、その肩にもたれかかるようにして少女は眠る。
疲れるのも無理はないと、寝顔を見ながら思う。
ローカは少女だ。
自身と同じ、他の種に比べて体力や筋力の著しく劣る脆弱な種の少女だ。
小柄で細身の身体から伸びる手足は折れそうなほど華奢で頼りない。
そんな彼女に数時間以上休みなく歩き続けろと言うのも酷な話に決まっている。
険しい山道を先に立って歩くだけでも大変なのにもかかわらず、常に周囲を警戒し続けてくれているのだから、抱える心労も大きいに違いない。
彪人たちに見つかることなくここまで来られたのは、ひとえに彼女のおかげに他ならない。
聞けばラジャンからの追っ手のみならず、彼女は件の異種と呼ばれる生き物の気配をも感じ取っていたらしい。
今のところ辛うじて逃げ切れてはいるものの、彼女の力なくしては、このまま進み続けることは不可能だろう。
そのとき彼女を守るのは誰でもないと、自分自身に強く言い聞かせる。
戦うための技は持たないが、図らずもそれに用いる道具は手のうちにある。
特別な力を持たない今の自身には、疲弊した彼女に肩を貸すことぐらいしかできないが、来たるべきときには剣を取って戦おうと心の中で誓いを立てる。
剣を向ける相手は異種になるのか、それとも——。
固く握り締めた剣の鞘を、抱き込むように胸元へ引き寄せた。