第七十五話 担 負 (たんぷ)
一目散に進む少女に手を引かれ、石造りの家屋の間を縫って続く石畳の道を走る。
何度も自らが先を行こうと試みる少年だったが、そのたびに位置関係が入れ替わり、逆に手を引かれて走る形になってしまう。
走るローカは辺りの状況を気に留めるそぶりをまったく見せず、脇目も振らず一直線に里の出入り口を目指している様子だ。
逃げ出す側の立場とは思えない大胆な振る舞いに驚かされながらも、少年は先を行く少女の後に従って走り続けた。
履き物が石畳をたたく音や肩掛け袋の中身が擦れ合って立てる音は、吹き付ける風がかき消してくれていたが、彪人たちに出くわしやしまいかと内心穏やかではいられない。
「ローカ……! も、もう少しゆっくりでも——!!」
呼び掛ける声もまた風にさらわれたのか、少女の耳に届いた気配はない。
ひた走る中で少女の背に向かって三度ほど呼び掛けたが、一度も反応が返ってくることはなかった。
結局、二人は誰に見とがめられることもなく里の出入り口近くまでたどり着く。
ちょうど家屋の角を曲がったところで目に飛び込んできたのは、出入り口の脇に築かれた物見櫓だ。
到着の際はアシュヴァルの帰還を巡るひと悶着により、気に留めずに通り過ぎてしまっていたが、頭上に仰ぎ見る櫓は改めて見れば強い存在感を放っている。
頭上を見上げながら走る中、不意に思い出したのは食事の際に耳にしていた話だ。
今夜の見張り当番が誰なのかを、当人の口から聞いていた。
「上っ!! ローカ、上……!!」
やや強引気味に手を引き、注意を促すように声を上げる。
見張りの役割は外からの進入を防ぐためなのだろうが、内から逃げようとする者ならば見過ごしてくれるなどとは、とてもではないが思えない。
何しろ里長ラジャンの剣を握り、その上彼が買い上げたばかりであろうローカが一緒なのだ。
もしも見張りを務めるシェサナンドに見つかれば、呼び止められてラジャンの下に引き立てられるのが自明の理だ。
ローカを連れて逃げるとご大層に述べながら、里を出る前に捕らえられていては、これからが思いやられてならない。
どうにかして先を走る少女の足を止めようと考えるが、躊躇を感じさせずに進む彼女に声を掛けることができないまま、物見櫓の真下へと差しかかる。
櫓の下を通り過ぎる際、少年は思わず目をつぶっていた。
頭上から放たれるであろうシェサナンドの声に備えるが、結局櫓の上からはいかなる言葉も飛んできはしなかった。
何ごともなく里の出入り口を抜けたところで、恐々振り返って頭上を見上げる。
物見櫓の上に見えたのは、寝転ぶような形で投げ出されたシェサナンドの腕だった。
「シェサナンド、ごめん……」
酒に酔った上で居眠りをし、逃亡者を見逃したと知られたならば、見張りとしての責を問われるに違いない。
足を止めることなく、小声で謝罪の言葉を呟いた。
そのまま里を飛び出した少年と少女は、体力の続く限りひたすらに走り続けた。
当然、行く当てなどあるはずもない。
まさか鉱山に戻るわけにもいかず、できるのはただやみくもに里から離れることだけだ。
おそらくラジャンによって差し向けられるであろう追っ手から逃れるために、今は可能な限り距離を稼いでおく必要がある。
最初に自分たち二人の不在に気付くのは誰だろう。
里長ラジャンか、彼の四人の妻のうちの一人か。
それともバグワントか、あるいは——他の誰かだろうか。
山中を進みながら、改めて自身の背負う荷物の重さを噛み締める。
里へやって来た際よりも格段に重く感じられる肩掛け袋は、何度担ぎ直してもずり落ちてくる。
これまではアシュヴァルが何も言わずに荷物を引き受けてくれていたが、今後は一人分の重さに加え、ローカの抱える荷物も背負っていかなければならないのだ。
もしもこのまま人里にたどり着けず、山の中をさまよい続けることになったら。
もしもラジャンの放った追っ手に捕らわれ、里に連れ戻されたとしたなら。
もしも逃げる中で、例の異種と呼ばれる生き物に遭遇してしまったら。
山積する数々の不安を振り払うように、少年は少女の手を取って夜明け前の闇の中をひた走った。
◇
彪人の里を逃げ出してからどれくらいの時が経っただろう、気付けば空はすでに白み始めている。
見通しのよい木陰に身を寄せ、少年と少女はつかの間の休息を取っていた。
空腹を訴える腹の音に、ここまで食事どころか水の一滴さえ口にしていないことを思い出す。
水が残っていたかもしれないと、おもむろに肩掛け袋の紐を解いた。
袋の中に水筒を見つけ、まずはふたを開けたそれをローカに手渡す。
彼女が喉を鳴らして水を飲む様子を見届けると、少年もまた、受け取ったそれを口に運んだ。
「あれ……?」
呟きながら、空になった水筒を見詰める。
そして彪人の里にたどり着く前にその中身を飲み切ってしまっていたこと、到着以降に水を詰め直す暇などなかったことに思い至る。
もう一度袋の中をのぞき込み、大きく目を見張る。
まず最初に目に入ったのは、鉱山を発つ時に酒場の主人が用意してくれた二人分の携行食の包みだった。
自身の分と、その三倍以上の大きさはあろうかという、もう一人分。
それぞれの肩掛け袋に分けて収めてあったはずのそれらの残りが、なぜか一つにまとめられて自身の荷物に詰められている。
「これって、え……」
混乱を覚えながら、袋の中を引っ繰り返さんばかりの勢いで探る。
奥から出てきたのは財布代わりにしている巾着袋と、さらに麻袋がもう一つ。
紐を解いて中身を確かめれば、巾着袋には働いてためた分と、鉱山の皆が託してくれた分、合わせて三十枚以上の金貨が詰まっている。
続いて震える手で検めたもう一方の麻袋にも、同じく三十枚ほどの金貨が収められていた。
「あ……」
がくぜんとして目を見開き、口を開け放ったまま声にならないおえつを漏らす。
込み上げるさまざまな思いを噛み締め、両手で固く握り締めた麻袋に額を擦り付けるようにしてうずくまる。
少女は無言をたたえたまま、そんな少年の姿を静かに見詰めていた。