第七十四話 誓 約 (やくそく) Ⅳ
「アシュヴァル」
母屋から渡り廊下で結ばれた離れの客間、寝台の上には後ろを向けて眠るアシュヴァルの姿がある。
「眠って……るよね?」
戸口に立った少年は、その背に向かってささやくような声で語り掛けた。
「その——君に……伝えたいことがあるんだ」
アシュヴァルの眠る寝台へ一歩近づこうとすると、不意に床板がきしみを上げる。
音を立てないよう静かに足をずらし、少年はその場に踏みとどまった。
「自分ね、その——ローカと一緒に行こうと思ってるんだ。君は——許してくれる……?」
もちろん返ってくる答えなどなく、聞こえるのは静かな寝息だけだ。
「約束したよね。もう絶対にうそはつかない、君に相談なく勝手なことをしないって。……だからね、全部伝えるよ」
波立ちそうになる心を落ち着かせるため、天を仰いで大きな深呼吸を一つした。
「聞いて、アシュヴァル。あの子には——ローカにはね、なんにもないんだ。……ううん、ないんじゃなくて——苦しいことや悲しいことをたくさん背負ってる。自分はずっと『ない』ってことに悩んできて、あることのつらさなんて考えもしなかった。だからね、だから……ない自分になら、あるローカの荷物を代わりに背負えるかもしれないって……そう思ったんだ。自分は本当に——幸せ者だったんだなって。君に出会えて——最初に会えたのが他の誰でもなくて、君でよかったって……本当に思うんだ。自分にはアシュヴァルがいた。強くて優しくて……誰よりも頼りになる君がいたから」
荒くなる息遣いを抑え込むよう、胸に手を添えて言葉を続ける。
「——でもね、ローカには誰もいない。前も今も誰もいなくて、これからも——きっと同じ。だから、もしも誰があの子と一緒にいられるかって考えたら、それは自分なんじゃないのかなって。ちょっとずうずうしい——かな……? でも……やっぱり自分はそうじゃないかって思うんだけど——君はどう思う……?」
語り掛けるうち、いつの間にか頬に一筋の涙が伝っていた。
「付いてきてって頼んだらっ……!!」
気持ちが高ぶってしまい、思わず声が大きくなる。
眠るアシュヴァルの背中がぴくりと動いたような気がし、とっさに声を抑え込む。
「……君は——きっと付いてきてくれるよね。でも……それじゃ駄目なんだ」
その肩が再び規則正しく上下するところを認め、安堵の胸をなで下ろす。
頬から顎へと流れ落ちる涙を震える手の甲で拭い、込み上げるおえつをこらえ、途切れ途切れに言葉をつないだ。
「自分はね、守られてるだけじゃなくて——守れるようになりたいんだ。君が守ってくれたみたいに——もっと強くなってあの子を守りたい。だから……だからね、アシュヴァル。自分は、ローカと二人で行くよ。君は君の場所で……君のことを大切に思ってくれるみんなと一緒に生きてほしいんだ。——ううん、お別れじゃないよ。絶対に戻ってくるから。だから、いつかもっと強くなったら……もう一度君の隣に——」
拭っても拭っても、尽きることなく涙が湧き出てくる。
滂沱と流れる幾筋もの涙を拭うこと諦め、アシュヴァルの背に向かって必死に思いを伝えた。
これからしようとしていることを語ったとて、交わした約束を反故にしたことが許されるなどとは思っていない。
それでも最後ぐらいは自らの手で選び取った行動に対し、胸を張っていたかった。
「——こんなに泣いてたら、君に笑われるよね。でもね、君がいたから笑えるようになったんだよ。君がいたから……つらくても毎日楽しかった。君がいたから……君みたいに——強くなりたいって思えたんだ。今日まで……ありがとう。自分を——守ってくれて……包み込んで……くれて——」
次から次へと止めどなく流れる涙をそのままに、広い背中に向かって無理やり笑顔を作る。
「——アシュヴァル、君が……大好きだよ」
しばしの間、眠るアシュヴァルの背中を見詰め続けたのち、少年は思いを残したまま客間を後にする。
離れの戸口に座り込んで待つローカの後ろ姿を認め、未練を断ち切るように左右の袖で乱暴に涙を拭った。
「ごめんね、ローカ。——行こう」
持ち出した肩掛け袋を顔を隠すように担ぎ直すと、少年は少女の手を取って歩き出す。
「——ありがとう、さよなら」
もう一度、二人で過ごした日々に別れを告げた。