第七十三話 約 束 (やくそく) Ⅲ
まずは最初にすべきは、断りなく借りた剣を元の場所に返却することで、ローカと二人で屋敷を抜け出すのはその後の話だ。
屋敷には里長ラジャンと四人の女たちが暮らしていると聞いている。
先ほどは見過ごしてくれた彼女も、まさかローカを連れて逃げようとしているなどとは考えていないだろう。
再び見つかるようなことがあれば、見逃してもらうことはおろか、無事に帰らせてもらうことも許されないかもしれない。
盗人として、里長ラジャンの前に突き出されるであろうことは明白だ。
絶対に見つかるわけにはいかないと覚悟を決め、戸口から身を乗り出すようにして謁見の間をのぞき込む。
幸い謁見の間に人の姿は見当たらない。
行くなら今しかないとローカの手を引いて歩き出そうとするが、どうしてか彼女はその場から一歩も動こうとしなかった。
共に逃げることに恐れをなしてしまったのだろうか。
無理もないと不安を抱きながら見詰めるが、毛の合間からのぞく瞳は、ひと続きになった謁見の間の方向に注がれていた。
「ローカ……? ど、どうしたの?」
声を掛けてみるも、彼女は一切の反応を示さない。
急く気持ちをこらえて顔をのぞき込もうとした瞬間、彼女は突然思い立ったように歩き出した。
小走りで歩を進める彼女に、少年は手を引かれて歩く形になる。
「ローカ……!? そっちじゃ——こ、これ、返さないと……!」
彼女が進もうとしているのは、謁見の間と正反対の方向だ。
手にした剣と、前を走る少女を交互に見やりながら声を掛けるが、先を行く彼女からの反応はなかった。
このまま屋敷の外へ出てしまっては、持ち出した剣を返す機会を逸してしまう。
まさか、持って逃げるというわけにもいかず、思い残すように謁見の間を振り返ったところで、少年は部屋の中に燭台の明かりが灯る瞬間を認めていた。
続いて女たちのものであろう、かすかな笑い声が漏れ聞こえてくる。
剣を返すために謁見の間へと向かっていれば、間違いなく彼女たちと鉢合わせになっていただろう。
「……も、もしかして、気付いてたの……?」
先へ先へと進む少女の背に声を掛ける。
迷いなく無言で廊下を進み続ける後ろ姿と、返答のないことが、逆に答えであるように感じられた。
手を引かれて屋敷の外周を廊下伝いに歩き、誰に見つかることもなく母屋の玄関にたどり着く。
それが決して偶然や幸運によるものなどではないことを、少年は徐々にではあるが理解し始めていた。
初めて出会ったときからうっすらと感じていた。
ローカは、自身にはない特別な感覚を有している。
人の気配や動作を感じ取る力、とでもいうのだろうか。
思いを巡らせていたところ、少女が衣服の袖を引く。
「あ……ご、ごめん——」
我に返って彼女と向き合い、屋敷の玄関から外に向かって足を踏み出そうとする。
しかし、袖の端を握り締めたまま動かないローカは、振り返る少年の顔を見上げ、相変わらずの感情の読めない声音で言った。
「呪われてる、わたし」
「の、呪われてるって——え……あ——」
突然の告白に思わず動揺の声を漏らすが、ローカの口にした言葉には確かに聞き覚えがあった。
彼女の身を里長ラジャンに売り渡したであろう蹄人の商人、彼がローカを指してそう言っていたことは忘れもしない。
袖を手繰り寄せるようにして少年の手を取ると、少女は表情を変えることなく続けた。
「わたしを買った人、みんな幸せじゃなくなった。みんな、全部失った。みんな——死んだ、消えた、いなくなった。だから、今ならあなたも——」
「ち、違う——!!」
断ち切るように言い、大声を上げてしまったことに気付いてとっさに声を潜める。
誰かに気付かれていないかと周囲に注意を払ったのち、改めて彼女を見下ろし、静かに口を開く。
「そ、それは……違うよ。自分は君の持ち主になろうなんてつもりはなくて……もちろん気まぐれとかでもないんだ。……ただ、その——」
視線と左右の手を、落ち着きなく中空にさまよわせる。
「——もし自分が君だったらって考えたら、耐えられなかったんだ。それで——自分にも誰かを、君を助けられるならって……」
依然として無表情のままであるため思うところはわからないものの、小さなうなずきを返してくれる少女を前に、少年は自身の取った行動に対して許しを得たような安堵を覚える。
「君を自由にしたい、君に自由でいてほしいんだ……!」
決意を改めるように今一度口にし、少女の目を見据えて続ける。
「……それで、その……ここを離れる前に、寄りたいところがあるんだけど——いいかな……?」
許可を求めるように言うと、少女は無言の首肯をもって答えを返してくれた。