第七十二話 約 束 (やくそく) Ⅱ
「それは、うれしい?」
静寂を破って口を開いたのは、少女のほうだった。
突如として放たれた問いの意図するところが理解できず、少年は求めるような視線を投げ掛ける。
「そ、それって——どういう……」
「わたしが自由だと、あなたはうれしい? それは幸せ?」
「も、もちろん! と、当然だよ……! き、君がつらい思いをしなくて済むなら、それは自分にとってもうれしいことで——」
見据える少女を見返し、繰り返しの首肯を送りながら息荒く続ける。
「——初めて会ったとき……あ、見たときだけど、自分と似てるなって思ったんだ! だから君と話ができたなら、自分の知らない自分のこと、何かわかるかもしれないって思って! それで……少しだけど、君と——ローカと一緒の時間が過ごせて、それから……その——」
しどろもどろになる少年に向かって、少女は「ん」と一人納得したようにうなずいてみせた。
「それなら、助けられてもいい」
「え……?」
一瞬、少年は言葉を失う。
「あ——」
不可思議な物言いに戸惑いを覚えるが、今まで生きてきた短い時間の中の、彼女のことを思い続けた相応に長い時間が、その口にした言葉の意味を教えてくれる。
少なくとも、彼女自身もこの状況から抜け出すことを望んでいる。
「うん……!! だからどうにかして君を自由に——」
何か手はないかと、少年が周囲を見回していたところ、少女は首輪から延びる縄の先がくくられた柱へと歩み寄る。
自らを縛る縄を両手で握り締めるようにつかむと、力に任せて思い切り引き伸ばし始めた。
荒縄で掌が傷つくこともいとわず、あらん限りの力を振り絞るように縄を引くローカを、少年はしばしぼうぜんと眺めていた。
だが、柱から縄を引きちぎることを諦めた彼女が、次いで首元に手を伸ばすところを目にし、さらに衝撃を受ける。
今度は自らの首元から伸びる縄の根元を両手でつかみ、強引に引っ張り始めたからだ。
けば立った縄により傷ついた掌に加え、力任せに無理やり引っ張ったことにより、食い込んだ金属の輪が首筋に血をにじませている。
このままでは首がちぎれるまで縄を引き続けるのではないかという過剰な行動に、少年は大慌てで彼女の手に自らの掌を重ねた。
「ロ、ローカ!? ——や、やめて!!」
動転しつつもいさめるように言うが、少女は不思議そうな表情を浮かべて見上げてくる。
「そ、そんなことしたら……」
血のにじんだ掌と首筋を順に見やり、左右の手を彼女の肩に添える。
頭部の毛の合間からのぞく目一つをじっと見据え、固く意を決するように言った。
「自分が——今度こそ、自分が君を自由にするから」
言うが早いか、考えを行動に移していた。
首輪側の結び目は固く、無理やり取り去ろうとすれば、さらなる痛みを彼女に与えかねない。
即座に考えを切り替え、今度は柱側の結び目をほどこうと試みる。
しかし、彪人の強健な力で結ばれたであろう結び目は想像以上に固く、少年の非力な指先でほどくことは困難だった。
「少し待ってて」
黙って見据える少女に告げ、そのまま部屋を飛び出す。
謁見の間まで取って返し、落ち着きなく辺りを見回していたところ、ふと目に飛び込んできたのは、床板を突き破った状態で放置された斧だった。
「あれじゃ駄目だ……」
おそらく重過ぎる。
とてもではないが、自身の手で扱える代物とは思えない。
「これも——駄目かな」
二つに折れた槍を見比べ、手にしたそれを元の場所に戻す。
「早く、早くしないと……」
ローカのためにも、こんなところで手間取っているわけにはいかない。
何か手頃な大きさのものはないか、考えながら手探りで辺りを物色するうち、指先に何かが触れる。
「こ、これ……あのときの——」
幾つかの武具とともに、壺の中に無造作に放り込まれていたのは、稽古の際にラジャンが振るっていたひと振りの剣だった。
わずかな逡巡を経て、銀色の鞘に収められた剣に手を伸ばす。
「少し……少し借りるだけだから」
誰に言うともなく呟くと、剣を胸に抱いてローカの元へ舞い戻る。
固く、柄を握り締める。
剣など握ったためしはなかったが、音を立てないよう十分に気を付け、ゆっくりと刃を鞘から抜き放つ。
稽古の際にも目にした剣の刀身は、既知のどんな鉱物とも異なる奇妙な質感を有している。
近くで見る、赤みを帯びた輝きを放つ灰白色の刃に思わず息をのむ。
ふと心を奪われてしまいそうになったが、今はそんな場合ではないと目の前の状況に集中した。
鞘を寝台の上に置いた少年は、膝立ちの姿勢になったローカの傍らへと足を進める。
彼女には、首輪から延びる縄を緩みなく張り詰めるようにして握ってもらっている。
首に近い部分を両手で強く握り締め、喉元をさらす形で顎を持ち上げる彼女に向かって、剣を握る側と逆の手を伸ばした。
自らも片膝を突いて左手で縄を固定すると、右手に握った刃の根元を縄に押し当てる。
「痛いかもしれないけど——ごめん」
声を掛ければ、彼女は目を閉じたまま小さな点頭で応じる。
可能な限り痛みを与えないように、縄にあてがった刃をできるだけ静かに引いた。
「え……」
刀身がすと触れたかと思うと、縄は拍子抜けするほどあっけなく切断されていた。
特段力を込めたわけでもなく、何度も刃を引いたわけでもない。
ほんのわずかに触れただけで、縄はささくれひとつない断面をさらして切り落とされていた。
当のローカも、首輪から中途半端に延びた縄の端を手に取り、断面を不思議そうに眺めている。
「す、すごい……」
剣の刀身を見詰めて感嘆のため息を漏らすが、そんな悠長なことをしている場合ではないと思い至る。
頭を振って気持ちを切り替え、寝台の上の鞘に手を伸ばすと、不慣れな手つきで刃を収めた。
「ローカ、行こう」
言って振り返った少年の目に映ったのは、身に着けていた薄衣を脱ぎ捨てる少女の姿だった。
「うわっ……!? な、何して——」
大声を上げそうになるのをぐっとこらえ、少女から顔を背ける。
剣の鞘を両手で握り締め、しばしの間、きぬ擦れの音を背中に聞き続けた。
身動きの気配がやんだところを見計らってもう一度そっと振り返った少年は、出会ったときに身に着けていた襤褸に着替えを済ませたローカの姿を認める。
それまで着ていた薄衣をまとめて寝台に置き、その上に身に着けていた金の頭飾りを乗せた。
「行こう、ローカ」
見慣れた姿で駆け寄る少女を見下ろすと、少年は覚悟を決めるように改めてその名を呼んだ。