第七十一話 約 束 (やくそく) Ⅰ
謁見の間からひと続きになった小部屋、そこに探し求める少女の姿はあった。
屋敷奥の一角に位置する簡素な部屋は一方が外に面しており、据え付けられた窓からは月が柔らかな光を投じている。
開け放たれた窓を背に月明かりを浴びて立つ少女の視線は、戸口から踏み入る少年に向かって真っすぐに注がれていた。
そのたたずまいは、まるで自身が訪れることをあらかじめ知っていたかのようだった。
差し込む逆光の月明かりを受け、身にまとった薄衣が身体の形を透かしている。
見慣れた襤褸姿を脱ぎ捨て、華奢な輪郭をあらわにする少女を、少年はまじろぎもせずに凝視する。
身動きもできず、呼吸をすることも忘れ、肌を覆う面積の少ない衣服から伸びる細作りな肢体に見入っていた。
「……ローカ」
鼓動の高まりを悟られないよう、努めて平静を装って名を呼ぶ。
呼び掛けに応え、一歩、二歩と少年に向かって歩み寄る少女だったが、足を止めたのは、またしても首輪にくくられた縄だった。
縄の先は窓際の柱に固く結び付けられており、伸ばした両手が触れ合う前に、彼女は縄に引かれて立ち止まった。
同じだと、数日前の出来事を回想する。
雨の中、彼女は倒れ込んだ自身に向かって手を差し出してくれた。
あのときは手を握り返すことができなかった。
目の前で希望を断たれたことに対する落胆と、過度の労働によって積み重なった疲労とが、ない交ぜになって気を失いかけていたからだ。
あのときは、起き上がって次の一歩を踏み出すことができなかった。
だが今は手の届く距離に彼女の姿がある。
部屋の中へと足を踏み入れた少年は、差し伸ばされた彼女の手と自身の手を触れ合わせた。
「ローカ……! やっと会えた……!!」
おぼつかない手つきで少女の手を握り締める。
思いが先走るあまり強く握り過ぎたと気付き、とっさに手を引っ込めようとするが、少女は気に留めるそぶりを見せることなく掌を握り返してくる。
ぞっとするほど冷たい手の感触に、少年は激しい動揺をあらわに視線をそらした。
「わたしに、会いにきた」
相変わらずの、感情の読み取れない表情と声色で少女は言う。
「う、うん……! 君に——ローカに会うためにここまで来たんだ!」
「わたしに会いに」
「うん! そう、そうだよ——!」
再び向き直って答える少年の、その口にした言葉を少女は反復するように繰り返す。
続く言葉の思い浮かばないまま、少年は少女と互いに顔を見合わせながら、過ぎ行く時の流れに身を任せていた。
「そ、その——」
沈黙を破って口を開こうとしたその瞬間、手を握ってい少女の指先がかすかに力を帯びるのを感じる。
「約束」
ぽそりと呟いて見上げる少女に、にわかに胸の熱くなる感覚を覚える。
雨の日に交わした言葉を、彼女は覚えてくれていたのだ。
場当たり的な思い付きなどではなく、偽らざる本心からの行動であると信じてくれていたのだと思えば、自分を待っていてくれたのだと考えれば、全てが報われたような気さえする。
「そ、そうだよ……! 約束、約束したから——! 自分の言ったこと、覚えていてくれたんだね!」
うなずきをもって意を示す彼女に対し、感極まった少年は一段と強くその手を握り締める。
「き、君を追いかけてここまで来たんだ! 一人じゃ無理だったけど、アシュヴァルが助けてくれたから——あ、アシュヴァルはローカも知ってるよね? 彪人の——ずっと自分と一緒にいてくれてる……その……大切な——」
一人客間で眠る、アシュヴァルの背中を思い浮かべる。
目を盗んで身勝手をするのも、これでもう何度目だろう。
二度とうそはつかない、何も言わずに勝手なまねはしない、そう固く誓ったにもかかわらずだ。
ふと口をつぐむ少年の顔を、少女は不思議そうにのぞき込む。
「——な、なんでもないよ! 自分のことだから……なんでも……」
答えてぶんぶんと左右に頭を振り、今一度少女の顔を見下ろす。
「そ、そうだ……! ローカ、痛いところはない? ご飯もしっかり食べてるのかなって、それがずっと心配で……」
不安げな顔で尋ねる少年に、少女は小さな点頭をもって応える。
ひとまず安堵のため息をつき、少年は握り締めていた手を慌てて離す。
行き場を求めてさまよう指先で自身の頬に触れると、見詰める少女から視線をそらして言葉を続けた。
「そ、それならよかった……! ひどいことされてないなら……本当によかった——」
言いながら、彼女の手を引いていた彪人の女たちの姿を思い出す。
優美な手つきからは、ローカが雑な扱いをされていないであろうことが見て取れた。
衣服を着替えさせてくれ、身を小奇麗に整えてくれたのも、おそらくは彼女たちだろう。
加えて、ローカの居所を教えてくれたのも、この部屋に通してくれたのも、女たちのうちの一人だった。
「そ、そうだ……! さっきここに来るときだけど、女の人に見つかって……でも見逃してもらって、君の居場所まで教えてもらえたんだよ! やっぱり彪人たちは優しくて強くて、本当はいい人たちだって思うんだ。だからラジャンも——ちゃんと話せばきっとわかって——」
そこまで口にし、卒然と押し黙る。
脳裏によみがえる里長ラジャンの恐ろしげな表情と、放たれた無慈悲な言葉を思い返せば、忘れていた恐怖が再び胸の内に湧き上がる。
肉を食らうも血をすするも自由、ローカの持ち主は己だと豪語するラジャンの意を翻心させることなど、果たして可能なのだろうか。
言葉を尽くせば思いが通じるのか、本当に自らの意を通せるのかと、底知れぬ不安がせり上がってくる。
「——ラジャンに話をして、もう一度君を……自由に——してほしいって……」
口から漏れる言葉が、無性に空虚に響く。
話せばなんとかなる。
思いは伝わるに違いない。
淡い期待と考えの甘さが、いやに愚かしく思えて仕方ない。
やはりアシュヴァルの言った通りなのだろうか。
己のことさえままならない身では、弱く無知な身では、誰かを救うことなどできないのだろうか。
「自由……を——」
消え入りそうな声音で言って口を閉ざし、少年はうつむくように視線を落とす。
つと訪れた重苦しい沈黙の中でも、ローカはまじろぐことなく少年の顔を見詰めていた。