第七十話 女 神 (ひめがみ)
離れと母屋を結ぶ木製の渡り廊下を、極力足音を立てないように進む。
高地ゆえの激しく吹く風が物音を消し去ってくれはするが、用心するに越したことはないはずだ。
今現在のローカの居所を女たちに手を引かれて消えた先だろうと推測した少年は、はやる心を抑え、ラジャンと面会した謁見の間へ向かっていた。
屋敷の各所にたかれていた篝火の明かりは落とされ、頼りになるのは月明かりのみだ。
獣人たちの中には夜目が利く者たちもおり、アシュヴァルたち彪人も、わずかな光の中でも先を見通すことのできる目を持つ種と聞いている。
彼らのような目を持ち合わせていない自身にいくばくかの恨みを抱きつつ、壁に手を添えて先へ進んだ。
屋敷の住人たちは皆眠りに就いているのだろう、幸運なことに誰にも会うことなく謁見の間へとたどり着く。
行儀のよくない行為と知りつつ里長ラジャンの座していた高座を乗り越え、部屋のあちらこちらに散乱した美術品や工芸品の合間を擦り抜けるようにして進んだ。
女たちとローカの出ていった戸口へ向かう途中でふと足を止めたのは、何者かに見られているような感覚を覚えたからだった。
「あ——」
とっさに見上げた先に鋭い眼光を放つ彪人の横顔を目にし、半開きの口から思わず驚きの声が漏れ出る。
手遅れと知ってなお口元を手で覆う形で身構え、身を低くして眼前の彪人の出方をうかがった。
しかし、その人物は見とがめるそぶりなど一切見せず、横を向いたまま微動だにしない。
わずかの間を置いて、それも当然であることに気付くと、口元を覆う手を下ろし、目の前の彪人の顔を静かに見上げた。
「絵、だったんだ……」
少年の認めた彪人の姿、それは謁見の間の壁面に描かれた絵だった。
先ほど訪れた際は念入りに見る心の余裕などなかったが、ラジャンの座していた高座の奥、その壁一面に絵が描かれている。
今はそんなことをしている場合ではないとわかっていながら、引き寄せられるように壁の前へと足を進める。
建物の隙間から差し込むわずかな月明かりを頼りに、壁に描かれた絵を見上げた。
描かれていたのは、左方を向いた一人の彪人の姿だった。
放射状に放たれる光条を束ねた輪を背負い、左右合わせて十本の腕には剣や槍、弓矢など、幾つもの武具を携えている。
額に第三の目を有した、勇ましくも慈悲深い横顔は、男ではなく女を——そして人ならざる存在を描いたものであるように見えた。
「奇麗だ……とっても」
壁の絵に手を伸ばし、ふとそんな言葉を呟く。
「そうでしょう」
「うわあっ!?」
まさか返事が返ってくるとは思っておらず、驚きに声を上げてしまう。
慌てて後方を振り向れば、そこには火の灯された燭台を手にした、一人の女の姿があった。
見覚えがあるのは、彼女が先ほどラジャンの後方に控えていた四人のうちの一人だったからだ。
「き、君はさっきの——」
「覚えていてくれたの。光栄ね」
答えて口元に柔らかな微笑みを浮かべると、女は壁に描かれた絵を見上げて言った。
「彪人の守護神——神々の放つ光を総身に集めて生まれた栄光の導き手であり、魔を断ち邪を払う戦の化身。神々と悪魔の大戦争においては、相対した強大な相手を百日にわたる激闘の末に、その手に握った槍で貫いたという言い伝えもある——それが私たちの敬愛する女神」
「彼女が——女神……」
「そう、優しく気高く、そして——」
壁を見上げて呟く少年に対し、女はささやくような口調で続ける。
続けて手にした燭台で壁面を照らすと、わずかに厳しさを含んだ声音をもって語った。
「——苛烈なまでに美しい」
「え……? こ、これって……!」
燭台の明かりに照らし出されて浮かび上がったそれを目にし、再び驚愕の叫びを上げる。
高座後方の壁に描かれていたのは、左方を向く女神だけではなかった。
女神と背中合わせの形で、右方を向いたもう一人の彪人の姿がそこにあった。
その存在にそれまで気付けなかったのは、もう一方の絵が闇にまぎれる黒色と藍色の塗料によって描かれていたからだ。
黄と白で描かれた女神を光とするなら、もう一人の彪人はまるで影のようだった。
「黒き母。私たちはそう呼んで畏れている。慈悲深く高潔な光の女神の、血に飢えた怒りと狂気を司るもう一つの相——それが黒き母」
「黒き……」
女の言葉を繰り返しながら、照らし出されたもう一人の女神の絵を見上げる。
目は赤く血走り、牙をむき出しにした口からは長い舌がだらりと垂れ下がっている。
左右四本の手には血の滴る剣を持ち、首には彪人や他の種のものであろう髑髏をつなげた首飾りを巻き付けていた。
見るからに恐ろしい容貌に、我知らず息をのむ。
「殺戮と破壊、そしてその後に訪れる誕生と再生。私たちが祀り、敬い、愛し、畏れるのは、光と闇——相異なる相を併せ持ったそんな女神さまなの」
そこまで言うと、燭台を手にした女は少年の傍らまで歩み寄る。
「貴方、あの子に会いにきたのね」
「そ、それは……その——」
図星を指され、肯定を意味すると知りつつ押し黙ってしまう。
正直に事実を伝えたほうがいいのか、あるいは道に迷ったと偽りで逃げのか、どちらが得策なのかと葛藤する。
「——ええと……」
わずかな逡巡を経て、明かりに照らされる女の顔を見上げて答えた。
「……うん。あの子に——ローカに会いにきたんだ」
「そう」
改めて自らの言葉で伝え直す少年を見下ろし、かすかな笑みを浮かべた彼女は、手にした燭台で後方を示してみせた。
「あの子なら、そっちの部屋」
「……え? そ、その、誰かに——ラジャンに知らせたりはしないの……?」
思いも寄らない言動に不意を突かれ、言葉を詰まらせつつ尋ねる。
女は微笑みをたたえたまま少年の頬に触れ、片目をつぶって言った。
「秘密にしておいてあげるから早く行きなさい。怖い王様が起きてしまわないうちに」
「う、うん……! わ、わかった、ありがとう!」
感謝の言葉を伝え、示された部屋の奥へと歩き出す。
戸口に立ったところで振り返り、明かりを差し出して見送ってくれる彼女に向かって尋ねた。
「ど、どうして見逃してくれるの……?」
「言ったでしょう、女神には二つの顔があるって。女は……いいえ、人も神も、誰しもが二面性を抱えて生きている。施したいときもあれば、奪い取りたいときもある。意地悪したいときもあれば、優しくしたいときもあるの。……坊やには少し難しかったかしら——?」
「……うん。まだちょっと難しいかな」
柔らかな笑みを浮かべたままいたずらっぽい瞳で見詰める女に、少年は自身も小さく笑って答えた。