第六十八話 長 夜 (ながよ) Ⅰ
案内をしてくれたバグワントと入れ代わる形で、ラジャンの妻であろう四人の女のうちの一人がやって来る。
彼女が用意してくれたのは、湯をたっぷりと張った桶と二人分の手拭いだった。
久しぶりの温かい湯はこの上なく心地良く、凝り固まっていた心身がほどけていくような、生き返るような感覚を禁じ得ない。
だが、長旅でくたびれた身体を拭き清めても、里長ラジャンの射貫くような視線と重々しい声音は、胸の内に余韻を引いて消えてくれなかった。
アシュヴァルも同様なのだろうか、木製の支柱に麻紐を編んで作った寝台の上に横たわった彼は、何も語ることなく、じっと虚空を眺め続けていた。
見詰める少年の視線に気付いたのか、アシュヴァルは重苦しい空気を打ち破って口を開く。
「——なあ、あれだ。力になれなくて悪かったな。バグワントじゃねえけど、俺にも……結局なんにもできなかった」
いかにも申し訳なさそうに身体を縮こまらせるアシュヴァルの姿からは、里長ラジャンの前ですくみ上がっていた彼とはまた違った一面が見て取れる。
それが自らの怯懦や恐怖を恥じるものなどではなく、後悔と自責の念からくるものなのだと理解すれば、胸の突かれる思いを禁じ得ない。
自身がいまだラジャンの影に怯えている中、アシュヴァルは成果を得られなかったことを悔いていたのだ。
それも、他でもない自身のために。
左右に大きく頭を振って少年は答える。
「ううん、そんなことない!! アシュヴァルがいなかったら……ラジャンに話を聞いてもらうこともできなかった。何も言えないままで——きっとローカにも会えなかった。アシュヴァルがいてくれたから、自分の目でローカが無事だって知ることもできたんだ……!」
「そりゃ、そうかもしれねえけど——」
浮かない面持ちからは、アシュヴァルが何を言わんとしているのかが見て取れた。
ローカが今現在は無事であることを確かめられはしたが、それは彼女が明日も無事であるという保証には一切ならない。
直接対面してみて、里長ラジャンが自らの所有物に対して抱く並々ならぬ執着を知った。
移り気な性格と、不要と断じたものに対する極めて雑な扱いぶりも目にした。
飽きを覚えたなら、ローカもあの水瓶や槍のように、乱雑に使い捨てられてしまうだろうか。
それともやはりローカを買い取った目的は、件の商人の言った通りに不老長寿の薬としての用途にあるのだろうか。
そうであったならば、いつなんどきあの鋭い爪が、尖った牙が、彼女の皮膚を切り裂いてもおかしくはないのだ。
震える身体を意志で押さえ付け、思いを定めて口を開く。
「明日もう一度ラジャンに話をしてみるよ……! それでも駄目なら——もう一回、今の自分に何ができるのか考えてみる」
「お、お前……本気か!? 相手はあの里長だぞ!!」
驚きのあまり、かっと瞠目するアシュヴァルだったが、少年の抱く覚悟を理解したのか、すぐに納得したように目を伏せる。
諦めにも似た表情を浮かべた彼は、寝台の上から呟くように言った。
「お前は……そうだよな。一度決めたら梃子でも動かねえ——そういう奴だったよ。
里長相手にあそこまで言えるのも、なかなか大したもんだぜ。……俺でもああはいかねえよ」
感心ともあきれとも付かない表情で言って、アシュヴァルは寝ころんだまま天を仰いだ。
語られる内容が、ラジャンにすがり付いてローカの自由を求めた際の話だろうと理解し、少年は小さくかぶりを振って応じる。
「……ううん、あれは身体が勝手に動いただけで、頭が真っ白になってたんだと思う」
恐れ知らずといえば、聞こえはいいかもしれない。
だが、こうして落ち着いた上で思い返してみれば、あのとき取った行動が無知ゆえの向こう見ずだったとわかる。
今、同じように里長ラジャンに立ち向かえるかと問われたなら、首を縦に振ることは難しいだろう。
「だから……ほら——今もこう」
「そんなもんだって」
いまだ震えのやまぬ手を、寝台のアシュヴァルに向かって差し出す。
アシュヴァルは自らも手を伸ばして差し出された掌を打つと、そのまま少年の頭を軽くついた。
「——ああ、わかった。明日な、明日。仕方ねえからよ、俺も一緒に行ってやる。とことんまで付き合うって約束だからな」
「う……うん、あ——ありがとう」
頭をかき回されながら礼を言い、思い出したように言葉を続ける。
「そ、そうだ……! そういえばアシュヴァル、ラジャンに——何か言われてなかった……?」
去り際、里長ラジャンがアシュヴァルの耳元で何事かささやく様子を目にしている。
「ん? ……ああ、あれか。——いや、里長さ、なんか思い違いしてんじゃねえかな。土産がどうとか——気に入ったとかなんとか言ってたけどよ。俺にゃそんな気の利いたことできねえって。お前が何か用意してた——なんてわけねえよな。そんな暇なかったもんな」
どこか釈然としない表情を浮かべ、アシュヴァルは不可解そうに頭をひねる。
しばし思い悩むそぶりを見せるかれだったが、すぐに答えを出すことを諦めたのか、気持ちを切り替えるかのように声を上げた。
「ま、なんかの勘違いだろ。それよりも明日だ、明日! ……あー、どうすっかなー!」
再び寝台に身を横たえた彼は、天井を見上げながらぼそりと呟く。
「いっそのこと連れて逃げちまうか……なんてわけにもいかねえしよ、なんかいい手はねえもんかなあ……」
独り言ちるように言うアシュヴァルの横顔を眺めながら、少年は少年で明日はどのようにして里長ラジャンと向き合うかに考えを巡らせる。
たとえ見込みがないとはいえ、考えなしの無為無策で臨んでは、待っているのは今日と同じ結果だろう。
だが、どうすればラジャンに思いを聞き入れてもらえるかなど、皆目見当が付かない。
それどころか、これ以上小うるさくしようものなら、機嫌を大きく損ねかねないのは間違いないだろう。
そうなれば、せっかく里への帰郷を許されたアシュヴァルに側杖を食わせてしまう可能性も否めない。
バグワントの勧めを入れ、いずれ来るであろう機会を待つほうが賢明なのだろうか。
移り気なラジャンがローカに飽きるまで、ひたすら待つべきなのだろうか。
そんな考えとともに頭をよぎるのは、バグワントがどこまで事情に通じているかだ。
ラジャンがローカを買い求めた理由が不老不死を求めてのものであり、バグワントがそれを知らないのであれば、話はまったく変わってくる。
彼女の命を思えば、一日たりとも猶予はない。
考えれば考えるほど、明日の朝まで待つのがもどかしくなってくる。
今すぐに目通りを願いたかったが、そんな身勝手が許されるはずなど決してないことは、ラジャンとの謁見を通じて十分過ぎるほどに理解していた。