第六十五話 藩 王 (はんおう) Ⅱ
振り仰ぐようにラジャンを見据えたアシュヴァルは、熱気を帯びた口調で訴えるように言う。
「こいつはなんにも覚えてなくて、中身も外身も全部空っぽだった!! それでもなんか見つけようって必死でよ!! それがようやく自分の失くしたもんに近づくことができるって段になって——でも、それも目の前から奪われちまったんだ……!! 里長ラジャン、後生だ……!! こいつをあの娘と会わせてやってほしい! それで、できることなら自由を——」
「それは——」
まくし立てるアシュヴァルを、ラジャンはただのひと言で黙らせる。
次いで、もてあそんでいた水瓶を足裏で蹴り付ければ、高座から転がり落ちたそれは、硬い音を立てて砕け散った。
「——大事なことなのか。大言壮語を吐いて里を逐電した貴様が、意地も矜持も打ち捨て、厚顔無恥甚だしくも舞い戻ってくるほどには——大事なことなのだろうな」
言いながらラジャンは眼を眇め、狙いを定めでもするかのようにアシュヴァルを見据える。
刺すような視線の向けられた対象が自身であったなら、すくみ上がって黙り込んでしまうに違いないと少年は思う。
だが、アシュヴァルは震える身体を押し、ラジャンを正面から見据え返した。
「そうだよ、大事……大事なんだ! 確かにあんたの言う通りだよ! 俺はでけえ口たたいたくせに、恥ずかしげもなく戻ってきた腰抜けだ! 笑われても、後ろ指さされても仕方ねえってわかってる……! でもよ、そんなのどうだっていい! 何言われようと構やしねえっ!!」
言って立ち上がり、ラジャンに向かって歩み寄る。
「意地だ!? 矜持だあ——!? そんなもんなあ、どっかその辺に置いてきちまったよ!! だからこうして頼んでるんじゃねえか! ……里長!! あんただってよ、人の心のわからねえ木石ってわけじゃねえんだろ!? こいつを——あの娘に会わせてやってくれっ!!」
今にもつかみかからんばかりの勢いで言い立てるアシュヴァルをひとにらみで押し返すと、ラジャンは不敵な笑みを浮かべて小さく喉を鳴らした。
「——いいだろう」
ラジャンは短く答え、いかにも愉快げに声を漏らして笑う女たちに向かって告げた。
「連れてこい」
ラジャンの指示を受け、四人の女のうちの二人がその場を離れる。
「アシュヴァル……」
少年の声も右から左に抜けてしまっているのか、全身を弛緩させたアシュヴァルは放心したようにあらぬ方向を眺めていた。
わずかの間を置き、二人の女が戻ってくる。
彼女らに背を押されるようにして現れたのがローカだと、すぐには気付くことができなかった。
身に着けているのが見慣れた襤褸ではなく、彪人の女たちのそれとよく似た、薄地の衣服だったからだ。
乱れた頭の毛は丁寧にすかれ、頭の上には細工物の頭飾りが乗っている。
どことなくすすけた印象のあった肌も、奇麗に磨かれて血色を取り戻していた。
巻かれた首輪は以前のままだったが、見違えるほど美しく整えられた彼女の様子に、目の前の少女が自身の知るローカだと気付いた後も、掛ける言葉を見つけられなかった。
再会できたら伝えようと考えていたことは幾らでもあったが、できたのは震える足で立ち上がり、彼女に向かって手を伸ばすことだけだ。
一方で少女はといえば、以前と変わらず感情を読み取ることの難しい、うつろな表情を顔に張り付けている。
「——ロ……ローカ!!」
名を呼び、気負い込むようにして立ち上がる。
だが床を蹴って彼女の元に駆け出そうとした矢先、覚えたのは身体が後方に勢いよく引かれる感覚だった。
襟首をつかまれ、身体が宙に浮き上がったことを理解するのと、足下に何かが飛来する様を認めたのは、ほぼ同時だった。
激しい音を立て、床板を粉砕する形で突き立ったのは一挺の斧だ。
つい先ほどまで、ラジャンの後方に転がっていた品のうちの一つだろう。
空中につり下げられたまま、おずおずと後方を振り返る。
焦りとも安堵ともつかない表情を浮かべたアシュヴァルがため息とともに手を離すと、少年の身体はすとんと床へ落下する。
せき込みながら床に突き刺さった斧を見やり、次いでローカに視線を投げる。
彪人の女に肩を抱かれた彼女は、みじんも表情を変えることなく、静かに少年を見詰めていた。