第六十四話 藩 王 (はんおう) Ⅰ
里長ラジャンが起居の場とするのは、山の肩部に位置する里の中でも、最も高台にある屋敷だった。
石造りの白壁で覆われた外壁は他の家屋とよく似ているが、通りがけに見たどんな建物よりも立派で大きい。
バグワントの言によれば、ラジャンは妻である四人の女たちと共に、その屋敷で暮らしているのだという。
すでに知らせが届いているのだろう、門の前では一人の女が来訪を待っており、三人を屋敷の中に迎え入れてくれた。
通されたのは謁見の間と通称される部屋で、ラジャンが来客の応対をするための場所だそうだ。
妻の一人であろう女に促されるまま、少年は部屋の奥側の一段高くなった高座の手前に膝を正す。
隣では、アシュヴァルがあぐらを組む形で座り込んでいる。
二人が腰を下ろすところを見届けた女は、一礼をして奥側の出入り口から部屋を出ていった。
昼下がりの時間帯ではあったが、日の光の差し込まない部屋の中は薄暗く、壁際に配された燭台のみが室内を照らしている。
周囲を見回せば、部屋のあちらこちらに無造作に放り出された物品の数々が目に飛び込んでくる。
美術品や工芸品、衣類や武具など、目端が利かなくとも、ひと目で高価とわかる品が床中に散乱している。
里長ラジャンが買い取った品々なのだろうか。
落ち着きなく辺りを見回していたところ、部屋の戸口で腕組みをして立つバグワントの姿が目に入る。
その緊張感に満ちた顔つきと、顔を伏して座るアシュヴァルの不安げな横顔を見比べたのち、少年も気を引き締め直して目の前の高座を見据えた。
待ちわびていた瞬間の到来に、鼓動は加速度的に激しくなっていく。
もう一度あの商人に会えたなら、あるいはローカの新たな所有者に面会を果たせたなら、最初に何を伝えるべきなのか。
彪人の里へ来るまでの間、幾度となく繰り返し考え続けてきた問いだった。
まずは彼女の安否を尋ねたい。
かなうならば対話の許可を、そしてその身を自由にするために何が必要なのかを確認したのち、ようやく次に取るべき行動を考えることができる。
ややあって、部屋の奥の出入り口から先ほどの女が戻ってくる。
彼女が道を譲ると、里長ラジャンが姿を現した。
広場で見たときは比較的痩身に見えた彼だが、いざ目の前にすると総身から発せられる威圧感により、その身は実際より何倍も大きく見えた。
ゆらりと高座まで歩を進め、腰を落として脇息に身体をもたせかけるラジャンを前にし、想定はいともたやすく瓦解する。
伝えようと考えていた言葉の一言一句が頭から完全に消し飛び、金縛りにでもあったかのように身体が硬直してしまう。
嘆願を聞き入れてもらう以前に、それを伝えるための言葉がまったく出てこない。
ラジャンは発言を促しでもするかのように無言で顎をしゃくったが、身動き一つできないほどに固まってしまった少年は、ひと言も発することができなかった。
「……里長ラジャン、聞いてほしい話がある」
少年に代わり、口を開いたのはアシュヴァルだった。
あぐらを組んだ姿勢のまま、両の掌を床に据え付けた彼は、首を垂れてこの地を訪れた経緯を語る。
鉱山の町で少女を見掛け、その持ち主から身柄を買い取ろうと試みるもかなわなかったこと。
そして、その持ち主の次に向かう先が、この彪人の里であると知ったこと。
事のあらましを端的に話し終えたアシュヴァルは、額を床に擦り付けるようにして一層深く低頭した。
「では何か」
気だるげに頬杖を突き、アシュヴァルの話に耳を傾けていたラジャンが口を開く。
高座から見下ろすようにして放たれたのは、室内の大気が鳴動するかのような厳然として重々しい声だった。
有無を言わさぬ威圧感に加え、どこか不機嫌で陰鬱な響きを感じる声音に、少年は戦慄のあまり膝をそろえたまま小さく身をすくめてしまう。
「乃公の持ち物が欲しい——貴様はそう言うのだな」
「——い……いや、そうってわけじゃ」
アシュヴァルは精いっぱいの気力を振り絞り、ラジャンに相対しているのだろう。
声だけでこの迫力なのだから、射貫くような視線を向けられているアシュヴァルの恐怖たるや、自身の比ではないだろうと思いを巡らせる。
一瞬でも気を抜けば心が折れてしまいそうなすごみを放つ里長ラジャンを前に、アシュヴァルは深々と頭を下げながら身体を小刻みに震わせていた。
「乃公が乃公の持ち物をどうしようと乃公の勝手だ。貴様らにとやかく言われる筋合いはない。それが分かったなら話は終わりだ。——疾く去るがいい」
ラジャンは言い捨て、興味なさげに視線をそらす。
「や……あ——」
食い下がろうにも言葉が出てこないようで、顔を伏せたアシュヴァルは口を開けたり閉じたりを繰り返す。
怯えの程はその身体が何よりも雄弁に物語っており、全身の被毛——特に身体に沿う形で巻き込んだ尾の毛は、内心を表すかのように激しく逆立っていた。
ラジャンはそんな彼に構うことなく、近くに放り出されていた水瓶の口を足指でつかんで引き寄せ、手慰みとばかりに足で転がし始める。
背後に控えた四人の女たちの漏らすくすくすという含み笑いを聞き留め、少年は上目で彼女らをうかがい見た。
四人が四人とも、ここに来るまでに見た子を抱いた女たちや店で働いていた女たちとは一風変わった装いをしている。
身を覆う面積の少ない薄手の衣服には、ラジャンのそれとよく似た刺繍が施され、耳や首回りなどには色鮮やかな装飾品を身に着けていた。
額を床に擦り付けたままその場を動かないアシュヴァルに対し、ラジャンは見事な紋様の施された、いかにも値の張りそうな水瓶を足蹴にしながら言う。
「去れ——と言ったはずだが聞こえなかったか」
いら立ちともあきれともつかない口ぶりで言うラジャンに、アシュヴァルは身体をびくりと震わせる。
少年もはじかれたように身体を硬直させ、アシュヴァル同様うつむき気味に顔を伏せた。
「何度も言わせるな。少しばかり会わぬうち、乃公が間怠い真似を嫌いだということを忘れたか。なあ——小さなアシュヴァルよ」
声音にわずかなあざけりの色を含ませつつラジャンは続けるが、アシュヴァルは身体をますます強く硬直させる。
だが、折れんばかりに歯を食い縛り、唇を引き結ぶと、彼は勢いよく顔を上げ、ラジャンを見据えた。
「去れ……ねえんだよっ!!」
悲憤の込もった叫び声を上げると、アシュヴァルは横目に少年を一瞥する。
恐怖に怯えながらも、無理やり引きつった笑みを浮かべてみせるアシュヴァルの顔がそこにある。
ここは俺に任せろ。
そんな声が聞こえてくるような、決意と覚悟に満ちた表情だった。