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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第三節 「山河を越えて」
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第六十三話  莫 逆 (ばくぎゃく)

 再び木箱に腰掛け直した少年は、匙の上の最後のひと塊を咀嚼しながらシェサナンドの語った内容を思い返す。

 彼の言葉と川辺でのアシュヴァルの話を考え合わせれば、二人が幼い頃からの知己であることがうかがい知れる。

 共に修行に励み、互いの技を競い、打倒里長ラジャンを誓い合う。

 おそらくだが、そんな関係だったのだろう。

 好敵手として切磋琢磨していた相手に、ひと言も告げられることなく姿を消されたのだとすれば、確かにシェサナンドが裏切られたと感じても不思議ではないのかもしれない。


「——友達、だったんだ」


 地面に視線を落として呟いたところ、何者かが目の前に立っていることを、足元に落ちる影が教えてくれる。

 見上げる目に映ったのは、つい先ほど去っていったばかりのシェサナンドだった。


「シェサナンド……」


「これ」


 不意に視界がふさがれ、何事かと慌てるが、すぐにシェサナンドが目の前に何かを突き出したのだと思い至る。

 最初は眼前のそれが何であるかがわからなかったが、のけ反る形で身体をずらせば、酒の注がれた杯であることが見て取れた。


「飲めよ」


「じ、自分が……?」


「そうに決まってるだろ。お前以外に誰がいるんだよ」


 戸惑いを見せる少年に、シェサナンドは突き放したような口調で言い放つ。

 だが飲めと勧められても、鉱山で暮らした半年の間に酒を口にしたことはただの一度もなかった。

 給仕として何度も運んだ品ではあるが、飲んでみようと思ったことすらなかったのは、酔いつぶれて前後不覚に陥る客たちの姿を見続けてきたことが理由の一つになっていたのかもしれない。


「——ご、ごめん。飲んだことなくて」


「……なんだよ」


 顔の前で慌ただしく手を振って答えると、シェサナンドは不服そうに舌を鳴らす。

 引き戻した酒杯を大きくあおった彼は、ひと息でその中身を飲み干してしまった。

 空になった酒杯を木箱の上に放り出し、続けてもう一方の手に持っていた二杯目を飲み始める。

 シェサナンドが下戸上戸げこじょうごいずれであるかは知る由もないが、たたえるうつろな目つきは、いつか見たアシュヴァルや、酩酊して醜態をさらす酒場の客たちを想起させる。


「そ、そのへんにしておいたほうが……」


 恐る恐る忠告を口にするが、案の定酔いが回っているのだろう、シェサナンドはかたくなに耳を貸そうとはしない。

 それどころか、当て付けでもするように勢いよく酒杯をあおって二杯目を空にすると、腰を屈めた彼は少年の顔をじっと見据えた。


「お前さ、名前は?」


「な、名前——」


 酔いに据わった目を見返し、シェサナンドの言葉を繰り返す。


「——名前は……まだないんだ。わからない、覚えてないって言ったほうがいいのかな」


「じゃあ名無しってことかよ。……変な奴」


「やっぱり変……かな?」


 軽く苦笑いを浮かべて尋ねる少年を、シェサナンドは胡乱な目つきで見据える。

 建物の壁に背を滑らせるようにして座り込んだ彼は、木で鼻をくくるような口ぶりで今一度呟いた。


「変に決まってる」


「そ、そうだよね。それと……名前だけじゃなくて——」


 過去と記憶を含む一切の持ち合わせなく、不毛の荒野に目を覚ました日のことを切り出す。

 興味はないと突き放されるのではないかという危惧もなくはなかったが、シェサナンドは変わらず壁にもたれかかったまま、黙って耳を傾け続けてくれた。


「——それでアシュヴァルが見つけてくれて、守ってくれて、いろいろなことを教えてくれたんだ。だから自分は……こうしてなんとか生きていられてる。アシュヴァルはね、自分の知っている誰よりも優しくて、強くて——」


 自らを弱く小さいと卑下するように言うアシュヴァルの姿を思い浮かべながら語る。

 本人の前で語ることはしないと決めた話だったが、同じく彼と友誼を結んだ誰かに対してであれば許されると思うのは、いささか独りよがりが過ぎるだろうか。


「そんなの知ってる」


 ふてくされたような表情で一瞥をくれたのち、シェサナンドは消え入りそうな小声で呟いた。


 空になった二杯目の酒杯を無言で押し付け、壁に手を添えて立ち上がる。

 おぼつかない足取りで歩き出す彼の背に、少年もまた立ち上がって声を掛けた。


「ど、どこへ行くの!?」


「見張りだよ」


「み、見張り……?」


「見張りって言ったら見張りだよ。名前も知らなきゃ、見張りも知らねえ、本当になんなんだよ。……見張り、見張り。今夜の当番は俺だからな」


 シェサナンドは背を向けたままぶつぶつと呟き、定まらない指先で里の出入り口辺りを差し示す。

 思い返してみれば、確かにその辺りに物見櫓のような建造物があった気がする。


「だ、大丈夫? だいぶ酔ってるみたいだけど……」


「酔ってない。見ればわかるだろ」


 シェサナンドは振り切るように言うと、左右に蹈鞴たたらを踏みつつ歩き去っていく。

 途中ヌダールから「おいおい、そんなんで大丈夫か?」と心配されていたが、シェサナンドは「うるさい!! 」と声を荒らげながら、里の出入り口の方向へと消えていった。


 おぼつかない足取りで去っていくシェサナンドを見送ったのち、少年はアシュヴァルの様子を見に向かう。

 再び店の中をのぞき込もうとしたところ、ちょうど店内から姿を現したバグワントと鉢合わせになる。


「あ——」


「待たせたな」


「——そ、それじゃあ……!」


「里長のところに案内しよう」


 詰め寄る少年に対し、バグワントはあくまで静かに応じる。

 後方にはアシュヴァルの姿もある。

 顔を見上げて首肯を送れば、彼もまた決意を強めるかのように、力強くうなずき返してくれた。


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